ピアノを辞めた日

私は三歳の頃からピアノを習っていた。

正確に言えば、習わせられていたというのが正しい。昔、母が習いたいけれど習わせてもらえなかったとか、お金持ちのお嬢様だった幼馴染が習わせて貰っていて羨ましかったとか、そういうありがちな理由から。

当時住んでいた場所が田舎だったからだと思う。ピアノを習っているのは、私も含め、学年に数人しかいなかった。学年に一人だけ、バイオリンを習っている男子がいた。しかし彼は「男のくせに、バイオリンなんて気持ち悪い」「お金持ちアピールがしたいの?」とからかわれてから(実際お金持ちの家の男子だったのだが)、バイオリンを習っている事を口外しなくなった。

そこは医者の息子が夏休み明けに「夏休みに、家族でニューヨークに行って来た」と言っただけで、一ヵ月、集団無視されるような田舎だった。

田舎の恐ろしい所は、年収がウン千万の医者や地主の子息子女が、父親が定職に就いていなかったり、生活保護世帯の子供と同じ学校に通っている所だと思う。

当然、低所得の家庭の割合の方が高い。団地住まいの彼等は、小さい頃から一緒に遊んで育つので結束力も強かった。そして当時流行っていたアニメや漫画の影響で、その小学校には「お金持ち=高飛車で性格が悪い・気持ち悪い」とイメージが定着しており、お金持ちの子息子女は身を縮こませて生活していた。

そんな環境だったので、正直な所、私もピアノを習っている事は口外したくなかったのだが、母がそれをさせてくれなかった。小学校の頃、憧れていた女の子に自分の娘を近付けたかったのかもしれない。そんな母の期待と圧力により、私は担任教師の頼みを断る事が出来ず、全校朝会で校歌を弾いたり、文化祭の合唱で伴奏をする事になった。よって、周りにピアノを習っている事を隠す事は不可能だった。

クラスの女の子に「ピアノを教えて」と言われ、休み時間に教える事もあったが、伴奏に選ばれなかった女子や、そのグループの子に「選ばれたからって、調子にのんなよ」「勘違いしてんじゃねーよ、ブース」等、面と向かって言われるようになった。

コンクール的な奴にも出た事があるが、私は本番に弱いタイプだった。人前で伴奏する事には慣れていたが、ステージで演奏し、採点される事には慣れていなかった。慣れないフォーマルシューズでステージの上でこけるわ、椅子にドレスを引っ掛けるわ、普段は間違わないような所で間違うわ、どのコンクールも結果は散々だった。

そんなこんなで、私は物心付いた頃からずっとピアノをやめたいと思っていた。


小学4年生になったある日、当時、一番仲の良かった女の子に「一緒にバスケ部に入ろう」と誘われた。とても嬉しかったのを今でも覚えている。私は小児喘息で運動が出来なかった。今までは一人で細々と、家庭科クラブでホットケーキやクッキーを焼いたり、手芸をしてはいたが、もうずっと喘息の発作も出ていない。そろそろ運動部に入っても大丈夫だろうと思った。

しかし帰宅後、母にそれを言うと、「バスケなんてして、指が突き指になったらどうするの」と大層な剣幕でまくし立てられた。「それなら、ピアノを辞めてバスケ部に入る」と言えば「今まで何年習ってきたと思っているの」「今辞めたらもったいない」「あんたが習いたいって言ったんでしょう」と怒られた。

確かに私は習いたいと言った。3歳の頃、ピアノ教室に連れていかれて鍵盤を触らせられて、先生に「楽しい?」と聞かれ「たのしい!」「ピアノ、やりたい?」「うん!」と言ってしまっていた。この年になると、子供が「習いたい」と言うように誘導させておいて、ホント卑怯だよなくそったれがとしか言いようがないのだが。

それでもなお反論し続けると、「誰に食べさせて貰っていると思っているんだ」「家から出て行け」といういつもの論調になった。つまり、親が続けろと言えば、小学4年生の私は続ける他なかったのだ。

結局私はバスケ部に入る事を許して貰えなかった。担任教師には吹奏楽部に入らないか? と言われたが、そちらには意地でも入らなかった。せめてもの抵抗にと、バトミントン部に入った。バトミントンは楽しかったが、部内には仲の良い友達がいなかったので、あまり面白くはなかった。

毎日2時間のピアノのレッスンの時間は、どんどん苦痛になっていった。当時住んでいた家が小学校の近くだったので、帰宅後、ピアノを弾いていると、皆がグランドで遊んでいる声が聞こえる。私も皆と外で遊びたいのに。ピアノなんてやっていても、イジメられるだけだ。AちゃんやCちゃんは、毎日学校帰りに駄菓子屋さんに行っているらしい。いいな、私はまだ駄菓子屋さんに2回しか行った事がない。ピアノなんて大嫌いだ。なんでこんな事の為に、Nちゃんとのバスケを諦めないといけないんだろう。子供心に不条理だと思ったが、小4の私は母を説き伏せる言葉を持っていなかった。

しかし、私は中学に入る前にピアノを辞めた。

別にピアノが嫌いだったわけじゃない。ピアノを弾く事自体は好きだったし、今でもピアノを見るとふらふらと引き寄せられるように近付いて、鍵盤に触れてしまう。同時に苦い思い出が蘇る。

ピアノを辞めたい一番の理由は、ピアノの先生が苦手だったからだ。

その先生は当時暮らしていた田舎町で、一番の腕を持つと言われていたピアニストだった。同時に、とても厳しい先生だと有名だった。それは事実で、間違えるとすぐに手をひっぱたかれた。頬をぶたれる事や、頭を殴られる事もあった。間違わずとも機嫌が悪いと「指の動きが納豆みたいだ」「ちゃんとテニスボールは握ってる!? 握ってないでしょう!」と難癖をつけてひっぱたかれる。(※私の親指の骨が表に出ず、内に引っ込むタイプなので、ピアノを弾かない時間はテニスボールを握って骨を矯正しろと言われていた)常に大声で何かしら叫んでいる。「ヒステリー」「更年期」という言葉を知った時、私の頭の中に真っ先に浮かんだのが、この先生と母の顏だった。

その教室に行くと、いつも誰かが泣いていた。

今思い返せば、彼女は生徒たちを泣かすことを楽しんでいた節があった。誰か泣きだすと、先生はとても満足そうに笑うのだ。ある日、生徒が涙を溢した瞬間、満面の笑顔になる先生を見て確信した。「ああ、この人は子供が、――いや、私達の事が嫌いなんだ」と。

なら、何故子供にピアノを教えているのか? それしか金を稼ぐ能がないからだろう。すぐに答えは出た。先生は結婚はしていたが、子供のいない女性だった。旦那さんの職業は覚えていないが、とてもお金持ちの家だった事だけは覚えている。教室にピアノは2台あったし、奥の方には先生専用のピアノがあって、確か合計5台あったはずだ。教室で使っていないピアノはレースで飾られ、部屋にはお洒落なガラス細工や、陶器が置かれていた。
「お金持ちの家の奥さんでお金に困っていないなら、大嫌いな子供にピアノなんか教えなきゃ良いのに」と思いはしたが、金というものはいくらあっても困らないだろうと言う事は幼いながらに理解した。

そして時代が時代で、そこは田舎だった。未婚女性や、結婚しても子供を産まない女性がどういう目で見られるか、どう言われるか、私は知っている。

親戚のおばさんで、30を過ぎても独身の女性がいた。他にも何人か、そういう女性がいた。彼女たちは、こう言われていた。「あれは女としての欠陥品だ」「結婚しない女は、いつまで経っても子供のままだから」「見た目はおばさんで、中身は子供のままなんて気持ち悪いだけ」「結婚できない女はどこかおかしい。あんなのかた〇と同じだ。障〇〇だ」。いつもは笑顔で優しい近所のおばあちゃんや、人の良いおじさん達が、彼女達の姿を見るとそう口汚く罵りだす。

そして、私の姿に気付くと、私の頭を撫でながら笑顔でこう言うのだ。「お前はああはなるなよ、あれは悪い見本だ」「林檎ちゃんは、ちゃんと結婚するのよ」「大丈夫よ、林檎ちゃんはしかっりしているから」と言ってコロコロ笑う。今思えばあれは呪いだった。

もっと恐ろしいと思ったのが、うちの母を含めた既婚者で子供のいる女性たちの反応だ。彼女たちは、本人達の前では口を揃えて「子供がいないなんて、自由に使えるお金が沢山あって羨ましいわ」「旦那さんと海外旅行だなんて素敵ね」と言う。しかし当人がその場から消えると、「可哀想。子供が出来ないなんて」「聞きにくいから事情は知らないけど、病気なの?」「違うのよ。あそこは旦那さんが、〇〇さんとは手も繋ぎたくないし、キスもできないって言ってるんですって。だから子供ができないの。それで、今度養子を貰うらしいわ」「いやだー、その旦那最低じゃない。〇〇さん可哀想」「あそこ、お見合いだっけ?」「そうそう、一人っ子の我儘なお坊ちゃまと結婚したの」「やっぱり一人っ子って最低ね、うちの人は次男で本当によかった」と、瞳を輝かせて話しはじめるのだ。口では「可哀想」と言っているが、彼女達の目は、好機と優越感でキラキラ光り輝いていた。

子供ながらに「醜いな」と思った。同時に「恐ろしい」とも思った。「大人になったら結婚して、子供を産まないとあんな風に言われるんだ」と言う強迫観念は、あの土地で確実に育っていったような気がする。

話を戻すと、子供のいない先生が周囲にどんな目で見られているか、どう言われているのかは、小学生の私でも簡単に察する事が出来た。

私は、先生と教室の外で会った事がない。玄関にはいつも生協の発泡スチロールが並んであった。恐らく、なるべく外に出なくて済むように、人と関わらずに済むように、暮らしていたんだと思う。

先生が子供を憎むようになった過程はなんとなく察する事は出来たが、それとこれ――自分達が殴られるのは、話は別だ。

私は教室で一度も泣いた事がなかった。先生の様子を観察していると、生徒が泣けば怒りが収まる事が分かった。分かったからこそ、泣く事だけは私のプライドが許さなかった。

ある日、私はレッスンの時間よりも早く教室に着いてしまった。先生は他の部屋で、生徒の母親と面談中だった。いつもの教室で待っていたが、薄い壁越しに二人の会話が聞こえてきた。先生はその母親の子供を泣かせた事、泣きながらピアノを弾いている生徒の様子を面白おかしく話していた。そしてその母親と、とても楽しそうに談笑していた。彼女たちの話を聞いて、やはり泣いたら負けなのだと思った。

面談を終えた先生は「待たせてごめんなさいね」と言って、アイスをくれた。上に練乳が入っている、イチゴ味のかき氷の棒アイス。そのアイスは小さい子や、新しく教室に入ったばかりの生徒が、先生に怒られて泣いたり、辞めると言った時に決まって彼女が渡すアイテムだった。教室で泣いた事のない私は今まで貰った事がなかったが、下の兄弟たちは良く貰っていた。多分、親への口止め料でもあったんだと思う。

母が買って来るファミリーパックの安いアイスしか食べた事のない私にとって、そのアイスは驚く程美味しく感じられた。

アイスを舐めながら「皆みたいに泣いた方がお得なんだろうな」と漠然と思った。泣けば先生が優しくなるし、こんなに美味しいアイスまで貰える。

それでも私は泣かなかった。病弱ではあったけれど、負けん気の強い子供だったからだと思う。その内、思い切り引っ叩かれて、椅子から転げ落ちる事も出てきた。

プライドもあったが、泣けない理由は他にもあった。その頃になると、教室には私の下の兄弟や、幼馴染の妹も通っていたからだ。彼女達が見ているから、泣けないという事情もあった。


先生の所のレッスンはバイエル、ルグミュラー、ソナチネアルバム、ソナタといった流れだった。「程度が低い」「先生のレベルが低い」と言われている他の教室には、当時流行っていたアニメや、DQの曲を弾かせて貰えるらしく、正直羨ましかった。一曲合格すると次の曲。その次の曲が終わると、次の曲。そしてアルバム一冊のが終わると、次のアルバムと言う流れだった。その教室で、小学生の内にソナチネアルバムを終わらせたのは、私と幼馴染のお姉ちゃんしかいなくて、それはちょっと自慢だった。

ある日、叩かれて泣いている新しい生徒の様子に、見るに見かねて「もう叩かないであげてください」と先生に意見した事がある。

先生は私を振り返ると血走った眼で手を振り上げたが、レッスン以外で生徒に手を上げるのはどうかと思ったのかもしれない。そのまま「ソファーに戻りなさい」と言い、震える手を下に下ろした。

それから私は合格できなくなった。

完璧に弾いてみせても駄目だった。難癖つけて叩かれた。

やっぱり、先生に意見したあれが原因なんだろうなと思った。でも謝るのは何だか違う。そもそも私は悪い事なんてしていない。こんなに合格できないのは初めてで、家でレッスンしている2時間は、背後には母が付きっ切りで、金切り声を上げるようになった。

そんな事が続いたある日、Hちゃんという女の子が東京から転校してきた。クラスは違ったが、Hちゃんは私と同じピアノ教室に入った。教室でその子が鍵盤を叩く様子を見て、一目で分かった。「この子、私よりも上手い」。鳥肌が立った。そして、Hちゃんは日に焼けてゴボウみたいな私と違って、色白で細くて、とっても可愛い子だった。

Hちゃんはあっという間にソナチネアルバムを終わらせて、私の所まで追いついて来た。

二ヵ月経っても、私は合格できない。

三か月目、ついにHちゃんは私と同じ楽曲のレッスンに入った。

時期も悪かった。ちょうど文化祭前で、今年の合唱の伴奏は誰がやるか話題になっていた時期だった。廊下を歩けばヒソヒソ声が聞こえてくる。「林檎ちゃんよりも、Hの方がいいな」「Hちゃんの方がかわいいもんね」。うるさいな、そんなの私だって知っている。

しかし、私のクラスの担任教師は学年主任で、権力のある女教師だった。彼女のごり押しで私が例年通り、伴奏に選ばれた。ブーイングの嵐だった。Hちゃんは本当に可愛い子だ。クラスのリーダーのジャイアンみたいな男子も彼女に恋をしており、私は彼から目の敵にされるようになった。

学校に行くと靴がなかった。トイレから戻ると消しゴムに鉛筆が刺されている。刺された鉛筆は、夏場でも一ヵ月、二ヵ月お風呂に入らず、いつも酸っぱい臭いをさせている男子の物だ。私が今までピアノを教えていた子達まで、私を避けるようになった。

ピアノを辞めたいな、と思った。

帰宅後「お母さん、ピアノを辞めたい」というと、「我儘言ってんじゃないわよ!」とひっ叩かれた。

ピアノを辞めたい。なんでこんな思いまでしてピアノを続けなきゃいけないんだろう。学校から帰って、ピアノを弾いていると、部屋のカーテンが、壁が歪みだす。歪みだした壁は、虎や豹、妖怪になる。

もう、無理だと思った。

家では「なんでずっと、この曲を合格できないんだ」と母に叩かれる。ピアノ教室に行けば先生に難癖つけられて手を叩かれる。学校に行けば皆にヒソヒソされる。

今まで、ずっと一番だった。

ピアノでは誰にも負けた事がなかった。

これは私が初めて経験した挫折だった。幼馴染のお姉ちゃんには敵わなかったけど、彼女は私よりも3つ年上だし、お母さんがピアノの先生だ。アドバンテージが違う。同年代の女子に負けたというのは、とても大きなショックだった。

そして、私はピアノを辞める事にした。6年生になれば悪知恵もついている。うちの実家は、毎週、土日は近所にある父方の祖父母の家に行くので、その時を狙った。祖父母は私に甘い。

祖父母の家で、改めて私は「ピアノを辞めたい」と言った。

当然、母は反対した。そして自分が逆らえない義母の前で、そんな事を言い出した娘の狡猾さに怒り狂っていた。「そんなにうまいのに、やめるなんてもったいないでしょう!」と怒鳴る母に、私は驚きのあまり言葉が出てこなかった。母が私がピアノが上手い思っているだなんて知らなかった。その時、初めて知った。私はピアノでも勉強でも、母に褒められた事が一度もない。

祖母は「やめたい」と言う私に「林檎ちゃんはそんなに上手いのにもったいないよ」と母と同じ事を言った。

私に甘い祖母までそういうのなら、もう味方はいない。誰に言ってもやめられないと気付いた私は、次の手に出た。

直接、先生に「やめる」と言いに行くのだ。

親が継続して習わせたがっていたとしても、本人がもうやりたくないと言っている。先生も、そんな生徒に無理矢理教える事はしないだろう。

次のピアノ教室の時、私は「今日でやめます、今までお世話になりました」と言った。

先生はかなり驚いたようだった。いつもとは違う部屋に通されて、「ここに座りなさい」と言われた。先生はアイスを持ってきた。先生からアイスを貰うのは、二度目だなとぼんやり考えた。先生はアイスで私を懐柔しようと思っているのだろう。アイスはあの時と同じ、イチゴのアイスだ。やはり私は間違ってはいなかったと思った。やはり泣いたら負けなのだ。アイスは貰ったが、懐柔はされない。されたら他の生徒と同じだ。しかし、こんな時に限って他の生徒はおらず、教室には私と先生、二人だけだった。

それから私は、先生にやめたい理由を事細かに聞かれた。本当の理由は言えなかった。「先生がすぐ叩くから」と答えれば、私は”スパルタな先生のレッスンについていけなかった負け犬”になり、先生やHちゃんに敗北した事になる。「先生がいつまで経っても、合格させてくれないから」と言えば、「あなたが下手だからよ」と言われるに決まっている。「私が合格できなくなったのは、先生に生徒を叩くなと言ってからです」と言っても、煙に巻かれるに決まってる。彼女がそういう人間なのは分かっていた。

しかし、私は小学6年生だった。大人が反論できないであろう回答も心得ている。

「勉強が難しくなってきたので、そろそろ受験に向けて勉強に専念したい」これだ。こういえば、大人は何も言えなくなる。しかし先生は、しつこく食い下がって来た。「ピアノは脳に良い。そういう研究データもある」「うちの生徒は、皆、○○高(県内で一番偏差値の高い高校)に通っている」と、ひとつひとつ辞めたい理由を潰されていく。小学生の私には、彼女を論破する事が出来なかった。

「音楽が嫌いだからです」

私の口から最後に出てきた言葉は、それだった。

その後、私は「もう、二度とピアノなんて弾きたくない」と言った。

先生はしばらく沈黙した後、「いつから音楽が嫌いなの?」「林檎ちゃんがピアノを嫌いになった理由は、私ですか?」と言った。まさにその通りなのだが、私は「はい」と頷く事が出来なかった。何となく、言ったら先生を傷付けてしまうような気がした。

今思えば「テメーのせいに決まってんだろーが! 何言ってんだクソババア! 〇ね!」くらい言ってやれば良かったと思う。今の私なら言っている。

そのまま私は無言で教室を飛び出した。

空は青かった。

もう、先生に叩かれない。毎日2時間ピアノを弾かなくて良い。放課後、友達と遊べる。Nちゃんとバスケ部に入れる。解放感で、しばらく笑っていた。

帰宅後、「ピアノ、やめてきたよ」と一言だけ言うと、家に来ていた祖母が目を丸め、母が金切り声を上げた。私はピアノバッグを玄関に投げ捨てて、そのまま外へ遊びに行った。


そして、私はピアノをやめる事に成功した。

あの後、先生は私の母に「あんなに音楽が好きだった子なのに、私が嫌いにさせてしまったのなら本当にごめんなさい」「またピアノが弾きたくなったら、いつでも戻ってくるように伝えておいてください」と言ったらしい。幼心に、物凄いモヤモヤした。

この年齢になれば、そのモヤモヤを言語化出来る。あえてここには書かないけれど。

それから時が流れ、私は大人になり、結婚して、娘を産んだ。

前述した通り、私にはピアノには苦い思い出がある。娘が「ピアノを習いたい」と言った時、正直苦々しく思ったが、娘と私は全く別の人間だ。

そして先日、私は娘の誕生日にピアノを買った。

母や先生が知ったら発狂ものの、安い電子ピアノだ。飽きっぽい娘がピアノを続けられるか分からないし、まずはこの程度で良いだろうと思った。

夫が仕事に行き、娘が学校に行った。

一人になった家の中で、なんとなく鍵盤に触れてみる。――瞬間、涙が零れ落ちた。

私、なんでピアノ辞めちゃったんだろう。なんで負けちゃったんだろう。あんなに好きだったのに。今でもこんなにピアノが大好きなのに。

指が、もうあの頃のように動かない。全然動かない。

私、なんで、負けちゃったんだろう。なんで、諦めちゃったんだろう。

この指がまたショパンが弾けるようになるまで、どれだけ時間がかかるだろう。


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