越後2009_-_70

アンリアルの海

本来は三が日に書いたらいいのかもしれないが、まだ松の内だし、今年やりたいことを書いておこう。「やりたいこと」は、到底できないだろうってことも含む。だってやりたいんだからね。それと「松の内」には七日まで説と十五日まで説があるらしい。僕は十五日説。

Masaki.I@powergradation さんのツイートで知ったのだけど、Designed Realities Studio の最初にのってる言葉がすごくいい。「リアル」の外側に広がる「アンリアル」の海。その海岸線はつねに変動している。原文はこちら。なので、非現実計画を平気で立ててよし。

6月、比較思想学会(東京)。9月、ENOJP6(ブダペスト)。道元についてこれまでに知りえたことを報告する。「真理」とは静的な概念だ。それは高いところに止まっていて、触るためにはけっこう険しい道を重装備で登っていかないといけない。登れる人は限られる。もっと多くの人が登って絶景の体験をすれば、地上の風景も変ってくるだろうに。そこで道元は垂直の高さを水平の径路に変換した。地上の百草に万華の開落をみる光学を設計した。

昨年の ENOJP5(名古屋)で印象付けられたことは、日本哲学 Japanese Philosophy が哲学の亜種ではないこと、固有の名をもつべき一つの文化的態度なのだということ、その特徴は哲学とは異なって、諸々の芸能と連続的であるという点だ。それに気づかされて、もはや道元を道元としてだけ一途に読んでいる場合ではない、道元はたとえば定家や世阿弥や利休とともにあったと考えるべきなのだ。時代がちがうとか問題じゃない。日本哲学というひとつのゲームを、別のポジション、別のタイミングでプレーしていたのだ。

やることが突然、広がった。でも自分で全部をやらなくたっていい。自分のポジションでナイスプレーを心がければいい。

現代数学。これこそ非数学者にとっては険しい道を登ったところにそびえる真理の集まりだ。これを地上に展開する術はないか。数学者たちはその努力をしている。抽象的な定理に具体的な限定を加え、想像可能なシチュエーションを構成し、さらには日常のドラマ仕立てにする。しかしその過程で、本来あった抽象的な絶景は着色されキャプションが書き込まれ、要するにポピュリズムの方法で登攀路を舗装している。もしこれを採らないとすれば、どうするか。数学を何か他のもので説明するのではなく、他のものを数学で説明すればいいのでは?「他のもの」とは、つまりたとえば道元だ。正法眼蔵に数学のアイデアを織り込む。

そのためにはまず、自分が現代数学の道を登攀しなければ。高校2年の時、同じクラスのT君の家に遊びに行った。T君の部屋で、絶景を下から見上げることになった。大きな書架に、高木貞治『解析概論』をはじめとして、数学科の図書室に揃えられるであろうプロのための本がノートとともに並んでいた。同級生。16才。

T君は順調に?数学の教授になって数学の教科書を書いた。そのうちの3つ、今年中には無理でも、手はつけたい。

▸ 坪井俊『幾何学 I:多様体入門』東京大学出版会
▸   —   『幾何学 II:ホモロジー入門』 —
▸   — 『幾何学 III:微分形式』 —

建築。世界中の建築を見て回りたいぞ。まずニューヨーク、DS+R の The Shed、Steven Holl の NYU哲学棟、カルフォルニアでLouis Kahnのソーク研究所、ヨーロッパに行って SANAAの Rolex Learning Center、H&dM の Tate Modern、中東では Nouvel の National Museum of Qatar など。自分が建築家になるのはこれからじゃ無理だけど、建築という物質で書かれた哲学を書くことならできるんじゃないか。

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