「我が家の戦後」がやっと終わった話①

今、NHKの朝ドラでは「昭和を代表する作曲家」の戦争時代の話が放送されているらしい。私はTVを観ないのだがネット等で反応は見聞きする。

我が家も実は「戦没者遺族」だ。御先祖様の遺影の中に「軍服姿の若者」が居る。実際に会った事はない。何故ならその若者は日本の遥か彼方で散華してしまったからだ。遺影の中には「当事者の家族」が並んでいる。しかしながら生前、私がその事について全く本人達から聞いた覚えがないのである。逆に学校では「平和教育」と称して、左翼的な先生達が過去の日本の蛮行を、口汚く罵りつつ如何に戦後日本が平和国家として、有難い存在かを滔々と語っていたのを、私は学生として経験している。

我が家の墓は分譲された墓地になく、鬱蒼とした森の中にある。沢山の墓石が並んでいてよくよくそれを見れば、江戸時代の年号が刻んであったりもする。その敷地の奥に曽祖父が建てた2つの墓がある。一方は先祖代々の墓であり、私も何れは入る事になる。もう一方は「遺骨も入ってない墓石」である。子供時分から盆暮れ正月や彼岸には掃除に行く。そして手を合わせる。

これは我々次世代が悪いのだが、墓掃除は当たり前に先祖孝行・供養の一環だからとやるのに、その相手である御先祖様の情報が余りにも貧相で、自分の大切なDNAを受け継いだ御先祖様にも関わらず、他人様の如くによく知らない・・・これではイカン!私はそう思って来た。歳を重ねれば重ねる程に、その思いが強くなって来た。

我々の国の先人が遺した言葉に従えば、我が家の御先祖も戦死したのだから、靖國神社へ行けば会える事になる。私は東京在住ではないが東京へ行ける時には、毎回ではないが足を運ぶようにしている。

しかし靖國へお詣りするのは「心の問題」で、歌謡曲「千の風になって」ではないけれど、そこに「魂」がないと言われてしまっては、反論する事も出来ない。

自分は大層な人間じゃないけれど、出来る事からやろう。血筋を継いだ者として心ならずも命を散らした先祖を、ちゃんとお祀りしようじゃないか。それは生前皆、一切黙して語らなかったけれども、遺されて哀しみを背負い続けた家族の重荷も、今更ながらだが軽くしてあげられるのではないか・・・それが出来るのは家族しか出来ない事だから。

去年の2月。そう思った私はタイ・バンコクのホテルからリムジンを走らせて、バンコク名物の道路渋滞を潜り抜けながら、ドンムアン国際空港へ向かっていた。午後のチェックインカウンターには中国人観光客が9割。声量大きい中国語が飛び交う。チェックインを済ませて保安検査場・出国審査場でタイの出国印を私のパスポートに無造作に押して貰う。

出国審査場を抜けたターミナルでも、観光客は免税店だコンビニだとあちこち動き回っている。私は搭乗口近くにあるベンチに座り、飛行機が動く外の風景を見ていた。タイらしくお坊様もターミナルにはいらっしゃる。

搭乗時間になって乗客が集まり始めた。あれほど多かった中国人観光客は殆ど居なかった。タイ語と英語で搭乗案内の放送が流れ始まる。搭乗口のモニターには以下のように英語と中国語で書かれていた。

"To YANGON  仰光" 

初めて足を踏み入れる街。しかしドキドキするよりも胸がザワザワするような、不思議な感覚が全身に伝わって来た。旅する高揚感ではなかった。

「帰りたい、帰りたい」

そう言われているように私には感じられたのだ。

「迎えに行きますからね。一緒に我が家へ、日本へ帰りましょう。」

そうだ、自分はその為にバンコクから飛行機に乗るんじゃないか!

改めてそう思えたら何だか泣けて来た。自然と涙が溢れて来た。

「ヤンゴン行の御客様は搭乗口××番からお急ぎ御搭乗下さい・・・」

搭乗口で搭乗券とパスポートを係員に見せ、私はボーディングブリッジを急いで通り抜けた。B737、世界中で見かける民間機の中でも小さな機体。

私は窓側の席に腰掛けて、サングラスを掛けてずっと窓の外を見ていた。涙を流している姿を見られたくなかったからだ。

定刻通り、飛行機は動き出した。ヤンゴンまでの飛行時間は約1時間。ゆっくりと滑走路へ移動し始め、私の乗った飛行機は滑走路を軽やかに離陸し、進路を西へ取った。

西へ飛び続ける飛行機。こんな遠くまで私は有難くも飛行機を乗り継いで来た訳だけれど、当時は日本から遥々こんなに遠くまでやって来たんだろう・・・

それを思うとやはり泣けて来た。窓から見える南国の大地が、より灼熱に見えた。

1時間なんてあっという間だ。もうすぐヤンゴンに到着する。

(続)

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