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在宅勤務(リモートワーク)から考える「働き方改革」

現在、ぼくが所属しているシーエスレポーターズでは、家族内に感染症の罹患者が出た場合、原則的に5営業日は在宅勤務となります。

社内での感染・拡大を防ぐための予防策であるのと同時に、家族看病の意味合いが含まれている、ぼくはと理解していますが、これを実践する困難さを実感したので、ツラツラと書き連ねてみようと思います。

始まりは妻のインフルエンザ感染・発症から

我が家では2名のインフルエンザ罹患者との生活を余儀なくされています。先週末から妻、週明けから次男、といった具合に立て続けにインフルエンザ(A型)へと感染していきました。

ただ、ぼくと妻的には、この感染経路(妻⇒次男への感染)も納得しているところで、当初、次男が体調不良で保育園を途中退園する必要があるところからスタートしています。

それを妻が仕事を休んだ上で、看病してくれていました。

その翌日というか、その夜から妻が熱発し、翌日にインフルエンザの検査を受けてみたところ、陽性。そこから妻は家族生活から隔離したものの、熱発して看病を受けていた次男との接触時間が多かったのもあり、次男も1日後に再度熱発。

日曜日も受診できる小児科へ出向き、検査を受けたところ「陽性」。

このため、現在は2名を自宅内で隔離している状況で、何よりも三男が母親の姿が見えない時はいいのですが、一瞬でも垣間見えようものなら、寂しい気持ちが沸き起こってしまい、グズグズ......。

上記のような状況のため、妻がインフルエンザの検査を受ける予定にしていた金曜日(午後)から在宅(リモート)勤務って形を取らせてもらい始めたのですが、これがなかなか容易ではないな、と。

これは職場内における仕事のコミュニケーションの部分で苦労しているって話ではなく、家族との間にある認識や意識の問題というか、差みたいなものを解決しないといけないってことに対して困難さを抱いてる次第です。

自宅にいるけど勤務

具体的にいうと、「自宅内にいるけど勤務時間」って認識が、体調不良者である家族にうまく認識してもらうに至っていないために、お互いに対しての不満感みたいな感情を抱いてしまっているのが正直なところ。

ぼくは「自宅にいるとはいえ、勤務時間だ!」と思ってしまう場面があるし、妻的・次男的には「自宅にいるんだから優先して欲しい!」と考えてしまう場面が出てきたときには、ちょっと苦労しています。

ぼくも家族も、自宅で仕事をするって姿勢や態度に「慣れてないんだな」と実感するのと同時に、その大変さを身に染みて実感しているところでもあって、時間と場面が多くなってくれば、家族はもとより、何にも増して"ぼく自身"が慣れていくのだとは思いますが、それまではちょっと苦労しそう。

成果物ではなく時間で支払われる給与

家族を大切にしたいとは思うものの、所属組織が変わり、これまでの働き方とは異なる働き方が可能になったぼくを見る目が、ぼくだけではなく家族の認識自体も慣れていくことで変わっていけば......と思うのですが、同時に、これは今後の日本における「働き方の多様さ」を受け止める際の課題にもなりそうだな、と感じています。

リモートワーク自体は別に新しい働き方でもなんでもないので、それ自体を殊更に礼賛する意図はありません。

ただ、これまでドップリと奉仕して「時間」によって対価を支払ってもらっていた人たちと、その家族がリモートワークに対面した際には、乗り越えなければならないのは「制度に対する認識の壁」ではなく、「制度を実践しようとした際に働く感情の壁」です。

家族的には「自宅にいるんだから」と家族に関わることを求めますが、リモートワーク実践者としては「勤務中だから」と突っぱねようとします。

これはどちらに非があるわけでもなんでもなくて、「成果主義」に慣れていないことが問題だから、お互いに慣れる他ありません。

つまり、「時間」を提供することで対価をもらっていた生活から、「成果」を提供することで対価をもらう働き方への変遷が、意識や認識の慣れが生じていないからこそ起こる摩擦ともいえます。

同一賃金同一労働が織りなすのは平等で冷酷な世界

働き方改革だなんだといわれ、2、3年ほど経ったでしょうか。それを成した暁に受けられる恩恵がどれほどあるのかを考えると、背筋が冷たくなります。理由は簡単で、そこは「同一賃金同一労働」が目指す世界は、平等で冷酷な世界だからです。

激しくいきり立った弱肉強食の世界に飛び込まなければならない、つまりは勇気を持って行動を起こし続けられる人でなければ生きられない厳しい世界に打って出ることになります。

その世界で生き残る(仕事にありつける)のは、時間だけを過ごして対価を得るパートタイマーではなく、成果を残して対価を得られるスペシャリストに限られていきます

それなため、これまでのように情緒面を考慮しての働き方などしている暇がないといえます。その善し悪しは別として、働き方改革を唱えるのであれば、必然的にそうならざるを得ません。

だから、ぼくたちの子ども世代は、ぼくたちよりも厳しい環境の中で「仕事」を捉えなければなりません。「常識」や「普通」といった認識は、20年ごとに変遷を辿るものだと思っていますが、日本的な雇用体系はそれ以上の年月を維持してきました。

それがいい悪いの判断は専門とする人たちに委ね、ぼくは共に暮らす子どもたちが過ごす日常がどんな風に変化をしていくのかを見定めながら、自分自身が少しでも社会に対して貢献できる一員であるための努力をする必要があるんだな、と今回のリモートワークを基にした家族とのやり取りから実感している次第です。


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