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「幸福」における「自己責任」の話

自分が子どもと生活をし始めてから、妙に「自己責任」て言葉について違和感を感じています。

そもそも「自己責任」ってなんだ、と思っているのもあるのだが、Wikipediaで調べてみると、随分と多義的、つまりはいろんな意味で使われていて、まとまりがつかなくなっているんじゃないか、と。

特に自己責任論が語られるようになった”例”を読み始めると、そのまとまらなさ加減が理解できるように思いますので、一読いただければと思います。(ぜひ見て欲しいリンク先

ちなみに、自己責任の反対語は連帯責任だそう。以下の引用をもとに咀嚼すると、行為や行動、言動に対する責任の所在を「自己」で止めるのか、「他者」まで広げる必要があるのかを境目にしているように思います。

自己責任(じこせきにん)という言葉は現在多義的な言葉となっている。反対の意味の語として「連帯責任」がある。
第一に、「自己の危険において為したことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う[6]」という意味がある。「お互いに他人の問題に立ち入らない」という価値観によるものである。アメリカ社会における国家観に立脚した行政改革・司法改革による事後監視、事後救済社会における基本原則の一つである。もっとも、この原則は十分な情報と判断能力がない場合には妥当しない。
第二に、「個人は自己の過失ある行為についてのみ責任を負う」という意味がある。個人は他人の行為に対して責任を負うことはなく、自己の行為についてのみ責任を負うという近代法の原則のことである。
第三に、「個人は自己の選択した全ての行為に対して、発生する責任を負う」という意味がある。何らかの理由により人が判断能力を失っていたり、行為を強制されている場合は、本人の選択とは断定できないため、この限りではない。
なお、「証券取引による損失は、たとえ予期できないものであっても全て投資者が負担する」といわれることがあるが、これは、上記第一あるいは第三の意味の責任が証券取引の分野に発現したものと捉えられよう。証券取引はもともとリスクの高いものであるから、たとえ予期できない事情により損害が発生したとしても、投資者が損失を負担しなければならないということである。(参照⇒投資家の自己責任原則、損失補填の禁止)

自己が判断・決断し、それを基に行為や行動を取った場合、その判断・決断をした人間が責任を負う、それが自己責任だと。

判断や決断に対する根拠

大切なのは、それをエビデンス(根拠)として残しているのかどうかだろうけど、そもそも個人が判断・決断する場面において残せるエビデンスってなんだ…て考えると途端にわからなくなりませんか

例えば、銀行から融資を受ける場合、融資側は貸付対象である個人の履歴を辿り、借金や支払いの遅延がないかなどの実績を確認するわけだが、これは「過去」みているだけで、「これから先」も支払い続けられるかどうかはわからないはず。

わからないはずなのだけど、それを「これまでの履歴」を担保にして、貸し付けを行うかどうかの判断の一つにしていますよね。

同時に「個人事業主」に対しては「会社員」よりも厳しく判断される傾向にあり、この判断におけるリスクの違いがイマイチ理解はできても納得ができません。

自己責任論で言えば、会社員であろうが、個人事業主であろうが、貸し付けを受けて返済を行う上での責任自体は同等であるはず。実際に貸付けを行う銀行だろうが、それ以外の投資だろうが、賃貸契約の貸主だろうが、「履歴を担保にする」のであれば、そこに差があるのは納得感がないんです。

だけど、貸付側が「自己責任」を負うかどうかによる、と考えれば納得できなくもない。個人投資家などを除いた、銀行などの組織的な融資で言えば「融資担当者」に、その上司が「本当に大丈夫なのか」と「根拠」を尋ねることによって判断・決断を揺らがせてしまい、結果、融資担当者の自己責任ではなく組織の連帯責任としてみなされるのを避けているのではないか、と思わざるを得ません。

幸福への責任

自己責任への納得感の話から、銀行の融資判断についてをツラツラと書いてきたのだけど、お金を借りるだとか、そんな話ではなく、個人が感じる「幸福への自己責任」はどうか

ここに対しての態度が一貫して揺らいでるというか、あやふやだなぁ…と感じる人と接する機会が少ない上に、子どもとの生活がはじまったからこそ、余計に「幸福への自己責任」を意識し始めました。

前提として「個人の幸福」を「個人が責任を負う」のは至極当然の話。どのぐらいに当然なのかと言えば、空気を吸って吐くのと同じように。

そこに制度的・仕組み的な不備があり、ある個人AとBとの間に明らかな「差」が認められるのであれば、それは差別に値するため、訴え出る必要性が出てきますが、そうではなく同等条件なのであれば、個人の幸福は個人に帰属します。

例えば、結婚をする際に男女間で「幸せにする」と男性側が述べたとしても、女性側はそれを理由に自分の「幸福に対する責任」を男性側に押し付けていいわけではないはずです。これを話すと「言い訳だ」とか「責任逃れだ」と批判される機会もなきにしろあらずなのですが、その意図はありません。

女性側の幸福になれるかどうかは、あくまでも女性個人に帰属するもので、その一端を男性が担うかもしれませんが、概ねの責任は女性側にあります。立場が反対だったとしても、まったく同じ。

自分の幸福は自分でしか成し得ないものであり、他者が制御できるものでもなければ、制御できていいはずもありません

ただ、この話は子どものように"守られなければならない"対象においては別だろうとも思うし、相手がどうしようもない人間で逃げなければ生命の危険がある、という点においては話が異なります。

自分の責任で幸福を追えない「子ども」

冒頭で「子どもと生活をするようになってから”自己責任”て言葉に違和感を感じる」旨を書きましたが、。

自己責任は、それを負える、もしくは追える人格にのみ当てられるものであり、それを担えない立場や、弱い存在には求めてはなりません。ぼくはそう考えます。

どういうことかと言えば、個人での責任で幸福を求められる環境も条件も揃っていない存在が「子ども」であり、「未成年」だってことです。

幸福を追い求めるだけの「ちから」や「つよさ」を会得していない存在である「子ども」に対して、「お前の幸福はお前の自己責任だ」と述べる大人がいるのだとしたら、頭をスリッパで叩きながら「アホか」と諫める必要があるでしょう。

なぜなら、子どもは「親を選べない」から。その時点で、「子ども」でいなくなるまでの間、上記でいう「ちから」や「つよさ」を身につけるまでは責任を追及できないし、してはならないのです。

彼らは社会的にも、人格的にも弱者だからこそ、法のもとに保護を約束されなければならない存在なのであり、それを破る親が裁かれるのは致し方がないことなのだともいえます。

だからぼくは、子どもが「幸福」だと思えるようにする・できるかはわからないけれど、「不幸だ」と感じないようには努力する必要があるのだと痛感している。

子ども自身が「幸福」だと感じるのかどうかは子ども自身の判断や認識であり、それを大人がどうにかできるものではないと思いつつも、「不幸だ」と感じてしまっているのであれば、それは生活を共にする大人の責任です。

ぼくには、自分の幸福を追い求める努力が必要なのは当然ながら存在するし、それは自己責任なのだけど、同時に、子どもが不幸だと感じないようにするための努力も必要なのだと言えます。

共に生活をしているって意味では、妻に対しても同じことが言えるようにも感じるのだけど、上でも述べたように、すでに個人格を有し、社会的な「ちから」を手にしている「大人」であるため、一定程度までしか負えません。(繰り返すが、決して言い逃れをしているわけではない!)

というわけで、「がんばろう」って話なのだが、ここ1年間の中で「がんばる」って言葉が好きになった。誰かの顔を思い浮かべながら努力をしようと思えるって、なんだかステキだな、と思うからだ。

だから「がんばろう」。

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