見出し画像

当事者意識。

どうも、えんどうです。

今回はサクッと参ります。

「相手の立場に立って考える」って言葉というか表現があるじゃないですか。あれは本当に可能なのかなぁ、と思ったのです。

その心がけ自体は認めますけども。

誰かが体験していることを実際に当事者として、抱く感情までリアルに体験できるのかといえばできませんし、もし、追体験をしようと思うのであれば想像する他にないわけです。ただ、想像する他にないのにもかかわらず、想像力如何(いかん)によっては再現性が全くなくなってしまう話になってしまうので、なんとも難しいな、と。

相手の立場に立つ、というのが当事者意識の話であるのは存分に納得の上ですし、異論はありませんし反論の持ち得ようがありません。

ただ、当事者意識を持つことは想像力の範疇です。よくも悪くも、当事者意識という言葉を使う人は当事者ではなく、あくまでも当事者を装った人だと言い換えることができます。要約してしまうと当事者ではないけれど、当事者の状況や感情を想像する人、となるわけです。

それがどこまで実現性があるのかといえば、あまりないように思うんですよね、ぼくは。

だって、結局は想像力に依存するしかなくなるのに、それにだって限界があるわけです。性別を乗り越えることはできないし、人種の壁を乗り越えることもできないことからも変えようのない事実です。

ぼくを含めた男性が月経の痛みを体験できるわけでもありませんし、人種によって受けてしまう誹謗中傷を体験していない人が、その体験を想像すること自体が不可能なわけです。

実際に誹謗中傷を受けたり、人種差別的な扱いを受けたのであれば、想像をすることも、感情に対して同調することも可能かもしれませんが、それがないの(体験知がない状態)にもかかわらず、当事者意識を持つだなんてことをできるわけがありません。

だったら、どうしたら当事者意識を持つことができるのかを考えてみると、実際に何かしらの当事者になるしかありませんよね。しかも、その数が多いに越したことはないですし、それを言語化したり、テキストに起こすようにして、とにかくアウトプットを繰り返しながら、自分の血肉にしていく他にありません。

ただ、想像力は万能な側面がある(あくまでも側面があるだけで万能だとは思いません。そこは悪しからずです)ので、自分が主観的に大きな傷を受けたことは、問題が全く異なるものであったとしても、引き合いに出しながら同調するツールとして利用することが可能。

結果的に、それができる人は自分が大きく傷ついたり、大きな禍根を残すような出来事に遭遇してしまった際には、その時の自分の状況や環境を見つめた上で、同じように傷ついたりした人に対して共感できるからこそ、その行動ができるようになるのだと言えます。

その経験がない人が、どうやったら当事者意識を持つことができるのか。

望んで失敗をしろ、とは言いませんし、失敗を前提にした失敗など、いくらしたところで何の得にもならないのは前提として、やるだけの価値があるとは思いません。

なぜなら、それは当事者を愚弄・バカにする行為であり、そんな人に自らが抱いている感情を理解してもらいたいと思う人は0(ぜろ)だとは言いませんが「主流派である」と自信を持って言い放つことはできません。

個人の承認欲求が「いいね」「スキ」「RT」「シェア」などで数値化されるようになってきている現代は、当事者だらけの世界だといえます。

その当事者だらけとも言える世界の中で、他人の関心事や悩みに対して提供できるだけの情報と価値があれば、ひとまず食い扶持に困らないようにも思いますが、そこに至るまでの過程は決して容易なものではありませんし、ないでしょう。

改めて想像力の大事さや、貴重さを知ることができたので良かったとも思いながら、当事者意識を身を以て体験しているのであれば、今回の取材は必要なかったのではないかなぁ、と思う次第です。

それでは、また。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!