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#えんどうnote 『ファン』を『マーケティングする』とは何事か!会議

どうも、えんどうです。

『ファンマーケティング』って表現というか、手法じみた言い方に、ちょっと思うことがあるので書き出しています。

そもそも最近『マーケティング』って言葉の汎用性の高さ、悪く言えば「節操のなさ」に、"ちょっとだけ"辟易としてきている次第です。

"マーケティング"とは......を見てみる

95歳までニューヨーク大学経営大学院(現スターン・スクール)で教鞭を執り、33冊以上を上梓し、クレアモント大学の経営大学院が彼の名前を冠するするほどの存在感をビジネス界において得ていて、『マネジメントの伝道師』として名を馳せたピーター・ドラッカー。彼はマーケティングを、

マーケティングの理想は、販売を不要にすることである。(引用元:マネジメント-基本と原則

販売活動を不要にすることだと喝破していますし、それと同時に、

企業のあらゆる機能の中で、マーケティングはアウトソージングできない中核機能である(同時に「トップマネジメント以外は全てアウトソージングできる」とも語っています。)(カッコ内引用元:ネクスト・ソサエティ

とも述べていて、つまり、マーケティングとは事業そのものである、とも言えるわけですから、そもそも『ファン・マーケティング』って言葉に違和感が生じてくるんですね。何かといえば、『ファン』って言葉を使う意味って何!?って。

そもそもファン(fan)って、「何かしらの(スポーツや有名人など特定の事柄に対する)熱心な愛好者」ですから、熱が高い人を指す言葉で、なんでもいいのですが、ある事柄に対しての熱が高い人は、それに対しての購買意欲も高いでしょう。

ドラッカーのいうようにマーケティングが"販売を不要にするもの"だとすると、いわゆる『ファンマーケティング』が目指す先にあるものと最終的には一緒になるわけで「え......じゃー、ファンって言葉......いる?」ってなりません?ぼくだけ?

片や、戦略的なマーケティングプロセスをはじめ、「マーケティングの体系化」を目指し、今に至るまで活動を継続しているマーケティング界の重鎮中の重鎮、マーケティング界のドラッカーと評されるフィリップ・コトラーはどう述べているのかというと、

マーケティングとは、充足されていないニーズや欲求を突きとめ、その重要性と潜在的な収益性を明確化・評価し、組織が最も貢献できる標的市場を選択した上で、当該市場に最適な製品、サービス、プログラムを決定し、組織の全成員に顧客思考、顧客奉仕の姿勢を求めるビジネス上の機能である。(引用元:『コトラーのマーケティング・コンセプト』)

時代によって色々と変化する人のニーズを捉え、収益を上げるために機会に転化させるべきだ.......って述べてるんですね。

これを読んでから『ファン・マーケティング』を考えてみると、やっぱりしっくりこなくて、そもそもマーケティングの中に含有されてない!?されてるよね!?となってしまいます......

さらにさらに、USJをV字回復させた張本人として有名な森岡毅さんは『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門』の中で、"マーケティングの本質とは何か"を語る部分で、

マーケティングの本質とは「売れる仕組みを作ること」です。どうやって売れるようにするのかというと、消費者と商品の接点を制する(コントロールする)ことで売れるようにするのです。

と述べており、「いやいや、やっぱりそうっすよねー!」って発言権の強い人のそばで石を投げつけるようなスネ夫的ポジショニングをしたくなってきます。

先にも触れていますが『ファン』とは『(ある事柄に対しての)感情的な熱が高い人』を指すわけですが、それを醸造する姿勢や態度は企業や組織、個人がマーケティングをする一環の中で、評判なり、評価なりを高めていく過程を設け、必然的に取り組むものです。

もっと言えば、人の届けるための方法の一つ、つまり、流通方法の一つだと考えられるわけで、そもそもドラッカーがいうように事業そのものだとしたら、そこに『ファン』ってつけるの、余計におかしくない!?って感じてしまうわけです。

さらに、ぼくが違和感というか、そもそも『ファン』を『マーケティング』するって言い方に嫌気がさしているのは、『売る仕掛け』の中にファンを組み込むなよ!って、ただただ感情的な面といえば、そうかもしれません。

ただ、マーケティングの根底的に必要なものは、顧客にとって必要で、不可欠で、頼もしい商品や製品、サービスな訳ですから、「良いもの」で「あるはず」ですよね。いや、「あるはず」ではなく「あるべき」ですね。

共感できる”良さ”があるからファンになる

ファンはすでに熱中しているのです。おそらく、ここで述べているようなぼくが否定する『ファン・マーケティング』は、すでに熱中している人たちを指してはいないように思います。

ターゲットとして、これからファンになろうとする人たちを『仕掛け』を設けて「作る」ものなのだと理解しているのですが、それは果たして......と考えてしまっています。

少し視点を変えてみようと思うのですが、マンガは「読んで共感されるから物語になる」と言われています。

説明すると「作品が読まれ、読んだ読者が登場するキャラクターに共感を抱くからこそ、読み続けられることで結果的に物語として成立する」ってことです。

コンテンツならコンテンツの、製品なら製品の、サービスならサービスの"良さ"がなければ成り立たないじゃないですか。

もちろん、まだ潜在的にファンになり得る可能性がある人がいたとして、「届いてない」のであれば、届けるための仕掛けや努力は必要でしょうし、すべきだとも思います。それを必要だと感じてくれる人がいたとして、そこに適切な商品やサービスを届けることができるのであれば、藁に縋り付いてでも実施すべきです。

どうしようもなく、到底売れるとは思えない製品やサービスにはファンなんてつきません。たとえば......

切れない爪切り!(そもそも爪を切りづらいし、グリップ部分も持ちづらかったり......)を開発している組織が『ファン・マーケティング』なるものを標榜し、ファンを作るような仕掛けをしたところで、ファンになる人がいるのか......って話です。

「接点を大事にする」なら納得できる

ファンが抱く熱の高さは、「こころ」を揺さぶられたことによって発生している、つまり感情を揺れ動かされた結果として、その後の行動(購買・告知・宣伝)にまで影響を及ぼしているものですから、自然派生的なものです。

森岡さんの「売れる仕組み」をつくるために接点を制する、の部分では"「頭の中」を制する"を第一項目とし、ブランドの認知率を引き上げてはブランドを資産化し、"選ばれる必然"を作り出すことだとしています。

この点をファンづくりだと述べるのであれば、まだ納得はできますが、マーケティング的にいえば、一環であり、全てではないわけです。

いわれる『ファン・マーケティング』には、どうもそれを感じられませんし、上っ面な感じしかしません。『ファン』を作ることが目的化してしまっているように見受けられますし、マーケティングって言葉を使って「それっぽく」言ってるだけのようにも思えます。

また、それはファン・マーケティング以外の『〇〇マーケティング』って表現される事柄にも同様の感情を抱いていて、正直、言葉遊び感が拭えません。

マーケティングって使えば、それっぽく聞こえるものだから、ついつい使ってしまっているのかもしれませんが、果たして、その『〇〇マーケティング』って、本当に使うべきですか?

そんなこと書いてたら、小嶋陽菜さんの、ここでいうファン・マーケティングについて語る内容の対談がありましたので、それを貼っておきます。

それでは、また。

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