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「家族」について考える

##なに書いた
血が繋がっていようが家族は他人です。でも、家族だと認めれば家族なのです。人だろうが犬だろうが猫だろうがロボットだろうが関係ありません。別人格であり、自分以外の存在であったとしても、認めれば家族なんです。不思議ですね。

どうも、えんどう @ryosuke_endo です。

家族って、いいものです。

ボクの人生35年の中で、いろいろとあったことを踏まえて、そう思っております。

人によっては非常に煩わしいと感じたり、ない方がいいと実感したりする場合もあるだろうとは思いますが、自分を律してくれる存在であり、守ってくれる存在にもなりうるのが家族って存在なのだろう、とボクは考えてます。

律してくれる存在であることや、守ってくれる存在であることは諸刃の剣でもありますから、損なわれてしまうと途端に暗くて息苦しい世界に突入してしまいますので、注意は必要なんですけどね。過干渉注意というか。

家族は他人

映画監督であり脚本かでもある、是枝裕和さんっていますよね。『そして父になる』や『万引き家族』を作った人、といえばピンと来る人も多いかもしれません。

この二作品は『血の繋がりがある=家族』なんて当然だとか常識みたいな価値観に投げかけてくる作品だと思っていまして、ボクは大いに共感するところがありましたし、脚本も構成も展開も含めて大好きな作品です。

『血の繋がりがあるからこその家族』なんて考える人と話をする際にはペットはどうなるんだ、と言いたくなります。言いたくなります、というか言ってます。犬や猫、爬虫類でも虫でも構いません。とにかくペットと共に生活をした経験がある方ならば「ペットは家族だ」と認めるでしょうし、認めざるを得ません。

ボク自身、猫と生活を共にしていた時期がありますし、犬との生活も経験しました。彼らとの生活は、時には面倒なこともあったりするのですが、根本的には生活を満たしてくれる大切な要素でしたし、たしかな存在感を得られる生活を与えてくれてました。

最近だと「LOVOT(ラボット)」のようなロボットもペットとして話題になっていたりしますが、ロボットだろうが何だろうが関係ありません。大切なのは共有した時間があるかないかです。

ペットと共に時間を過ごしたことがない場合には実感がないのかもしれませんが、自分とは血の繋がりのない存在に向けて愛情を持って接する存在として認めている人がいる以上は、それが絶対不変な価値観ではないことがわかります。

血が繋がっているからとか、家族だからという理由で何でもわかるようなフリをしたり、行動を制限したりすること、もしくは呪詛の言葉を投げかけたりすること(投げかける側に自覚はないことがほぼ、ですが...)の方がよほど罪深いことだと思うのです。

家族だからと言って"傷つけていい対象"にはならない

過去(2年前の毎日更新を始める前)に『家族を他人だと思えない人へ』と題したnoteを書いているのですが、これ以前から「家族とは言え他人は他人」だと認識しており、この考えが強くなったのはボク自身が家族を持って以降、さらにいえば長男くんが生まれて以降です。

結婚をしたからと言っても妻さんの思考や考え方がボクとまったく同じになるわけではありません。できたとしても、せいぜい傾向を掴むことぐらいでしょうが、それだってよくよく話を聞いてみないとわかるものではありません。

それよりもさらに決定的だったのは、そんな他人同士の二人の間に子どもが加わった瞬間に、家族とは言え他人であるって認識が圧倒的に強くなっていきます。言葉が通じないのだけれど、与えなくなってしまった瞬間から彼の命が途絶えてしまうことを実感する機会に恵まれたからでしょうか。

そこに血が繋がっているからとか、繋がっていないからだとかを考える隙を、ボクは見出せませんでした。そこは母親である妻さんとは異なる部分かもしれません。

彼女は自らの体の中で長い時間を使って育み、大切に向き合いつつ、死にかけながら(実際、長男の出産時には出血多量で死にかけてました。。)世に出したのだから、ボクなんかとは実感値が大きく異なるでしょう。

それでも、長男くんは長男くんであり、妻さんは妻さん。つまり他者、自分以外の存在である事実は変わりません。なにを言っても許されるわけでもないし、傷つけていい対象ではないのです。それは当然、お互いに。

家族のあり方も多様化するだろうけど...

今後、単身世帯が日本の主流派になっていくことはデータからみると明らか(以下記事を参照ください)なのですが、だからといって子どもがいなくなるわけでも、未婚化が主流派になったとしても家族がなくなるわけではない、と下記事の筆者、荒川和久さんは述べてます。(荒川さんのTwitter

ボクもそう思っていますし、家族のあり方が住居を同じにすることだったり、血の繋がりだったり固定的な観念から脱却していかざるを得ないだろうと思ってます。

むずかしい言葉を使えば、社会包摂って言い方になるのかもしれません。

他所(よそ)はヨソ、と区切ってしまうことは容易ですが、福井県では起こった事件は、そんな区切りから起こったんじゃないかなぁ、と情緒的に捉えてます。(論理的な観点は一切捨てて)

家族は他人ですが、他人とは言え家族です。そこに影響を与えるのが、それぞれの「物理的な空き時間」だとか「こころの容量」でしょうか。

他人の人生に責任は持てませんが、家族として「共有すること」を選んだ人たちであれば、関与することによって良き方向に進んでもらいたいと願いはします。それが押しつけや余計なお世話にまでならなければ喜んで(時にめんどくさそうにしながらも)支援する。

こんな風に考えられるだけで、家族っていいものだな、と。はい。すいません。

それでは、また!

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