見出し画像

目標の立て方、それへの向かい方

ぼくは目標に対して「高い方がいい」とは思っていない。むしろ低い方がいいと思っている。自分自身の立ち位置や姿勢・態度として、目標は常に達成できるように設定したいと思っているし、できる幅を広げつつ、高さを設けていくためには低くても、確実にできることを繰り返していく他にないと考えてる。

そんなことを考えている自分を俯瞰的に見てみたら、「目標」という言葉自体が嫌いなのかもしれない、と思い始めたのだが、目標はあくまでも「めじるし」で、自分の身長を遥かに超える場所に設定するものではない、というのがぼくの主張で、そんな主張を過去にも書いている。

ぼくは自分が「できること」や「やりたい」ことについての進め方・進み方は「一歩単位」で考えている。時として、奇跡的なことや感動的な賛助を得られることにより、二歩単位や三歩単位になることはあるかもしれないし、時としてエレベーター的な助力が生まれるかもしれないが、基本的に進み方は「一歩単位」だ。

山を歩いていたり、歩いたり走ったりしつつ、頂上を目指したり、遠い場所へ目指したりしながら、目印を目指して歩みを進めるものを想定していない。目標に対しての考え方に違いが生じる場合、大抵、この想起する場面や状況が異なることが多々あって、それは「単位」の違いだと気づくことが多かった。

後者の場合「何歩も歩くこと」や「何百メートル、何キロメートル走る」、「何メートル上の崖を目指す」など、自然と単位が多くなることを想定しているから、各地点ごとにある目印を目指しつつ、少しでも高いところへいくためには歩数や距離や高さが増えることは自然なことであり、不可欠な項目だと考えているのではないかと思う。

ぼくの場合(上で記載している前者)はそうではなく、単位が一歩単位であるから高いところを目指すも何も、階段を登るには自分の足の長さ以上の高さを登ることはできないし、歩くにしても自分の歩幅を常に無理して広げた状態で歩くことはできないとする態度だ。もっといえば、それでは継続性が失われてしまうことが何よりも避けるべき事態だと考えていて、自分の一歩単位で換算した上で「できること」を計算する。

だから、必然的に目標は低くなるし、低くならざるを得ない。自分の責任を保つために、自分の歩幅を認識するために、自分の腕の長さや足の長さを把握して生きるためには、あまりにも高すぎる目標設定は害悪になってしまうと考えるからだ。

だからと言って、意識を低くしていこうという話ではない。できることに対しての目標設定は低くするが、やりたいと思えることはその延長上に伸ばせば、どこにだっていける。どこにだって、どこへだって伸ばせるし伸ばしていいのが「やりたいこと」だし、何よりもそれがやりたいことの魅力でもある。

ぼくの目標設定に関する考え方は「逆算する」という考え方がわりと近いような気がしている。あくまでも「近いかなぁ」と思うだけであり、根本的にそれだとは言い難い。やりたいことに対して、自分の歩幅や身体的な特徴を踏まえた上で階段を設定し、確実に登っていける範囲がどこにあるのかを模索した上で段数や方向転換場所を設定する。

もしかしたら目標設定の数自体が異なるのかもしれない。ぼくの場合、目標設定自体を低く設定することを意識的にしているから、必然的にその数は多くなる。到達点が同じだった場合に、それは当然の話だ。自分にできることやできる範囲のことで常にできることを模索するような態度を取り続けるのだから、自然と数自体が増えていく。

数が増えると管理が大変になると思われるかもしれないが、ぼくからしたら、数が少ない方が実感が湧きづらいから大変だろうと思う。目標設定で重要なのは、過程に実感を感じられるかどうかだ。過程の中で、特に実感も感じられずに進めていくことほど、しんどいこともないのではないか。〇〇ができたから、次はこれだけど、これは□□をすれば......とできることを都度確認できる上に、課題やすべきことが可視化されていることが、結果的に最も早くたどり着けるものだと、ぼくは考えている。

だから、目標は低く、可視化しながら、だ。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!