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発信をし続ける人は、常に早(速)ければいいのか。ぼくは違うと思う。

俗にいうインフルエンサーがブログからSNS、Youtubeにまで本格的に波及してから5、6年ほど経ちましたでしょうか。SNSをはじめとした各種ソーシャルメディアを見ていると、インフルエンサーと呼ばれるに値する人たちの中にも2種類いると(ぼくとしては)考えています。

まず一つ、その力(フォロワー数)を行使したいと思っている人。もう一つは、結果的に力を得ていると認識していて、フォロワーと適度にコミュニケーションを図りつつ、うまく活用させてもらってる人

これ、あくまでもぼくなりの「解釈」なので、見方はいかにようにもあるのは承知の上です。

それを前提に話を進めさせてもらうと、前者は、マシンガンを撃ち続けるかの如く、とにかく数を連打しつつ、とにかく早(速)く発信することを意識していて、その連打の数に対して圧倒されてしまうのですが、彼らは常に先制攻撃を意識していることが最も大きな特徴かもしれません。

その早(速)さを節操なしと見るのか、フットワークが軽いと見るのかは、人によって判断が分かれるところなのかもしれませんが、それを魅力だと感じる人も一定数いるからこそ、フォロワーが集まっているのでしょう。

後者は、特に早(速)さを意識していない人で、フォロワーたちは、その人の出す情報の質を好んでいます

その質は何かといえば、発する情報が早(速)さに惑わされないだけの普遍性を持ち合わせていること。同時に、その人が夢想家としての側面も持ち合わせているため、その人の言葉や表現が心地よいと感じるからこそ、フォローしている人たちがいるのだと考えます。

捉え方を間違いたくないのですが、ここで述べている早(速)さは、作業や仕事といった実務・実行における早(速)さを指すのではなく、情報を出すタイミングを指します。

早(速)さを競い合っている状態というのは、常に強い疲弊感を伴いながら、血で血を洗うような血みどろの闘いを強いられるような人たちがいることを意味していて、勝ち残れるのは瞬間風速的にでも付加価値の高い(と思われる)消費コンテンツを提供できる人に限られます。

早(速)さばかりに意識を捉われると、発するタイミングを考えなくなっていきます。

発信するタイミングを考えなくなると、本来的にいえば大切なはずの発信の中身が稚拙になり、瞬間風速的な話題になることだけを善とする姿勢や態度へ向かい、結果として消費されるだけのコンテンツ生成をするだけの態度や姿勢へと変貌してしまう印象すらあります。

そこには他人に対しての礼節や感謝などの感情がなく、ただただ、機械化してしまったロボットのようで無機質なキャラクターだけが残ってしまっている状態で、多くの人は、そんな「代替品としてのキャラクター」を求め、次なる早い・速い情報の発信者を探し求めます。

発信をすることが何にもおいてすばらしいことなのだとは言いませんが、早(速)すぎる情報を出す人たちに対しては疑念を抱いてしまうことも、正直、ぼくは少なくありません。

それは自分の生活に置き換え、考えてみると、情報のタイミングが早いものは何かを考えると、すごく感情的なものだとわかりました。

たとえば、自分以外の人間に対しての怒りを発動させる際に、タイミングが早いのか遅いのかといえば、ものすごく早いわけです。これを制御できるかどうかは理性が働くのかどうかと同義です。理性が働くか否かによって、結果(ここでいえば人同士の信頼関係に対するダメージ)が大きく異なるように思います。

生産的で対話的な話をすることができるのか。そうではなく、怒りに任せた報復的な態度で一方通行的な言葉の羅列だけを発するのか

どちらが、その後の生活に対しての好影響を与えるのか。考えるまでもありません。

感情に任せた行動や言動は、ただただ早(速)いだけの情報発信と何ら変わりはありませんし、そこに対して抱くのは逆側の怒りや悲しみといった瞬間風速的な意味での盛り上がりです。

えとみほさんが『発信の質を左右するもの』と題して、いわゆるインフルエンサーの人たちが大衆迎合することに対しての意見を書いてくれていましたし、宇野常寛さんが『遅いインターネット宣言』として、あまりにも早(速)すぎる現状のインターネット空間の中で、健全な言論空間を構築するためには息の長い情報発信をすることが必要だとし、それを実現させることを目指すプロジェクトも本格的に動き始めました。

ぼくの中でも、その意見をついつい耳を傾けて聞いてしまう、読んでしまうあらゆる人たちが、これ以外にも感情的なインターネットの中で振る舞う人々に対して警鐘を慣らすかの如く語っているように見えるし、ぼくはそう感じています。

自分自身はどうあるべきなのかをネットの世界だけでなく、普段の生活を含めて考える機会になっていて、はたと気づいたことが一つ。

先にも触れたように、「早(速)すぎる」=「感情的すぎる」のだということ。

あまりにも感情の起伏に対してのスイッチを入れやすくする方法ばかりに、目と気を囚われてしまうがために、そこには何の建設的なやり取りも生まれなければ、そこから生まれた意見の応酬も、根本的には消費されるだけの瞬間風速的なコンテンツとして感情に飲み込まれていくだけになってしまいます。

感情は人に備わった大切な機能であり、それを無くすことはできないでしょうし、それがなくなってしまうことは悲しいことでもあります。

だからと言って、感情だけを刺激するような発信「それだけ」が、是とされるような認識も状態も健全ではないだろうと思うのです。

ネットの中で活躍をすることは、その人の持つ「いい部分」や「強み」を発揮した結果だと思います。それは変わりません。しかし、同時に、それが消費されるだけの感情コンテンツになっていないのかどうかは判別する必要があるだろうし、もし、そうなっているのだとしたら、今後はどうしていった方がいいのかを考える機会を設けて欲しいな、とネットユーザーとしては願うばかりなのです。

なんとなく、ネットへの付き合い方から、自分自身の生活に対しての態度まで考える機会になりました。それとんなくよかったと感じています。


こんな内容を、主にTwitterでしゃべってます。


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