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第12回① 志水 太郎先生 米国中心の診断戦略学に挑む医師。キャリアを決めた出会いは

「医師100人カイギ」について

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「様々な場所で活動する、医師の『想い』を伝える」をテーマに、医師100人のトーク・ディスカッションを通じ、「これからの医師キャリア」を考える継続イベント。
本連載では登壇者の「想い」「活動」を、医学生などがインタビューし、伝えていきます。是非イベントの参加もお待ちしております!
申込みはこちら:https://100ninkaigi.com/area/doctor

発起人:やまと診療所武蔵小杉 木村一貴
記事編集責任者:産業医/産婦人科医/医療ライター 平野翔大

 診断戦略学の第一人者、志水太郎先生。これまで、米国大学院留学、海外での臨床、日本国内の複数の医療機関における総合診療科の立ち上げなど、さまざまな経験を積んできた。その裏には、いくつもの挫折と、志水先生の原動力の源となった恩師との出会いがある。現在のキャリアに至るまでの経緯や想いについて、伺った。

志水 太郎先生
2005年愛媛大学医学部卒業。米国にて公衆衛生大学院修士、医師免許取得とともに、数カ国で総合内科の修行を積む。2012年に練馬光が丘病院、2014年に東京城東病院、2016年に獨協医科大学の総合診療科の立ち上げに関わり、2018年より現職。現在は診療の傍ら、国内の総合診療医の育成、そして専門である診断戦略学の発展に力を注いでいる。

ブラック・ジャックと
野口英世に憧れ医学部へ

 6歳の時に読んだ漫画「ブラック・ジャック」と野口英世の伝記で医師に憧れ、医師を目指した志水先生。3浪の末、医学部入学を果たす。在学当時は、「ブラック・ジャックの専門と思われる脳外科医になりたいと思っていた」という。

 しかし、初期研修先を決めるマッチングでアンマッチを経験。卒業後の初期研修先は、目指していたはずの脳外科をもたない病院だった。「脳外科から遠ざかったように思えた」というが、この後、志水先生は自身のキャリアを大きく変える「強烈な出会い」を経験することとなる。

米国留学中も週末の仕事は日本で。
ハードな生活がキャリアを決めた

 初期研修が始まり、ある勉強会に参加した際に出会ったのが、感染症内科の大御所・青木眞先生であった。この出会いから内科の面白さに目覚めていく。

 「優れた臨床医であり、優れた教育者であった」という青木先生に強い憧れを抱いた志水先生は、米国での臨床留学を目指した。米国での臨床は、そう簡単にできるものではない。まずは米国の人脈をつくることが近道だと考え、国内の米海軍病院の採用を目指すが、合格は難しかった。

 別の道を探す中、キャリアの先に考えていた公衆衛生大学院への留学を前倒しすることに決め、どうにかエモリー大学ロリンス公衆衛生大学院への入学を果たす。

 しかし、米国での大学院の学費を賄うのは容易ではない。週の前半に大学院の授業を詰め込み、週末は日本に帰国して全国各地の医療機関を渡り歩いて仕事をする生活が続いた。相当ハードな生活であることが想像できるが、この時の経験も、後に志水先生のキャリアを決めるきっかけとなる。

 日本では各地の医療機関で高時給の案件ばかりを選ばざるを得なかった。そのような仕事は、たいていは昼も立ちっぱなし、夜は寝ることができないような急性期の仕事がほとんどだった。

 「『受け入れを断る』『自分には診られない』などが許される環境ではなかった」と当時の様子を振り返る志水先生。さまざまな環境で診療を行わざるを得なかったため、特定の臓器に限定せず、全身の疾患を診る訓練になったという。驚くことに、当時はまだ総合診療医になりたいと考えてはいなかったそうだ。

 さらに、多くの現場が救急外来や集中治療など、スピード勝負が試される場所であったからこそ、「診断のスピードと正確性は、医療の質を変える」という新たな知見を得ることができた。目の前の患者さんの診断が早めに想定できれば、迷う時間や、不要な検査をオーダーし結果を待つ時間を短縮することができる。何より患者さんの予後が劇的に変わるという現場を何度も実体験した。

経験を基にした著書が大ヒット

 そのように仕事をする中で振り返ってみると、かつての医学部の講義では、診断の思考過程のプロセスを学ぶことはなかった。また、憧れの師である青木先生は診断の見立てをとても丁寧に進めていく医師であった。アメリカで出会った総合診療医のローレンス・ティアニー先生も、診断の神様と呼ばれていた。

 彼らは、どのように診断能力を上げていたのだろうか。診断に至るまでのプロセスが体系的に言語化されたものはなかったが、一般化できるような軸になる型があるはずである。

 優れた臨床医である憧れの2人との出会いと、米国大学院在学中の日本でのさまざまな場所においての現場生活をきっかけに、次第に「診断のプロセスは、言語化して体系化できる」と考え始めるようになった。

 2014年、自身の経験を組み合わせて診断の思考回路を体系化した著書『診断戦略:診断力向上のためのアートとサイエンス』(医学書院)を出版。世界的にも新しい類の本で、業界内で大ヒットした。当時の心境を、「自分しか目指せない、自分のやりたいことが見つかった」瞬間であったと振り返る。

「出会い」のためにアンテナを張る

 「キャリアを決めたものは、人との出会いしかない」と語る志水先生。彼の憧れの医師像は、良い師との出会いで形成されていった。

 前述の青木先生、ティアニー先生の他、卒後3年目までに総合内科医の徳田安春先生、藤本卓司先生と知り合うこととなる。「そこまでの強烈な出会いを医師早期に見つけたことはとても良かった」という。

 キャリアを変えるような人にいつ出会うかは、人により時期が異なる。志水先生の場合は、卒後3年目までと比較的早い時期であったが、時機が遅い人も、全く出会わない人もいるだろうという。そのコツを尋ねると、「出会いを引き寄せようと思って、アンテナを張って行動していれば、出会う確率が高くなるかもしれない」と教えてくださった。

 実は、志水先生が青木先生に出会った始まりも、完全なる偶然ではない。青木先生の講演のある勉強会に参加した際、勉強会では講師の先生の近くにいたほうが得だろうと思い、一番前の席に座ろうと最前列の真ん中の席を選んだ。

 講演は非常に面白く、必死にメモを取った。限られた情報からロジカルに、起因微生物や病変までを特定していく手法を目の当たりにして、体に電流が何回も走るような感動だったという。

 当時1年目の研修医であったため、大御所である青木先生に相手にされるか不安があったものの、「今声をかけないと一生後悔すると思った」ため、講演終了後に青木先生のもとに駆けつけ、感動を伝えた。臨床医として、教育者としての青木先生に、純粋に憧れを抱いて感動した気持ちをダイレクトにアピールしたという。

 不安とは裏腹に、青木先生から名刺をいただくことができた。当時の心境は「キター!」だった。以後、勤務先は異なるものの、青木先生と交流を深め、そこで学ぶことを一つ一つ研修のペースメーカーとしていった。青木先生に追随する中で、行く先々で尊敬できる優れた医師らと出会うことも多かったという。

数多くの挫折を味わうも、
師匠を目指し続けて…

 三浪、アンマッチ、さらには米国医師国家試験不合格、米国でのアンマッチなど、さまざまな挫折を経験してきた志水先生。しかし、決して自分自身を腐らせることはなく、おかれた場所で、ベストを尽くしてきた。諦めずに前へと進んできたが、「青木先生やティアニー先生のような医師になりたい」という強烈な気持ちが常に心の柱になってきたという。

 志水先生がブラック・ジャックに憧れて医学部を目指したり、卒後3年目までに出会った恩師の影響で内科医になったりしたように、多くの医師のコアの部分は、「この先生みたいになりたい」という気持ちにドライブされ、師弟関係で育つ。

 米国やヨーロッパの医師が多くを占める世界の診断業界の中で、アジアを起点にして世界を引っ張っていこうとしている志水先生。今後も「おかれた場所で最大限のベストを尽くすこと」をモットーに、診断戦略学の追求・普及に向けて奮闘されていくのだろう。

 インタビューの中では、そんな志水先生からもうひとつ、「一度お世話になった先輩には、長く感謝の意を示し、節目の年には連絡をするとよいですよ。一見なんでもないことのように聞こえるかもしれませんが、そのような積み重ねをすることで、将来のキャリアを変えるきっかけに出会える可能性もある。」と、今後の人生において大切なことを教わった。

取材・文:伊庭 知里(慶應義塾大学医学部3年)

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