長屋annie小姐~うろ覚えが消えてしまう前に~

古い本を引っ張り出してみた。
うちの50箱近くのダンボールの中から、先日の写真整理(とデジタル化)のためいろいろと開けてみたのだが、手を止めて読みふけってしまった。
「東京的日常」関川夏央・山口文憲の共著である。

香港好きに山口文憲さんの『香港世界』『香港・旅の雑学ノート』を避けて通れるわけがない。
そんな山口さんの講演が近所で開かれるという誘いを受けて、この本を持参、サインを入れてもらったわけだ。サインを貰い受ける時に「こいつがね」とにやっと笑いながら関川夏央さんの名前を指差すのだった。

1990年10月30日。中野の小さな公民館の会議室だった。十数人程度だったろうか。
24年前のことである。

僕を誘ってくれたのは、長屋アニーさん。
香港映画と香港にはまっていた僕は「ロードショー」を買っていて、その通信欄で「銀色世界」をお得に定期購読しませんか?というものだったと思う。
住所は中野区。調べてみるとかなり近いので、電話をしてみた。
当時ジャッキー・チェンが大ブームそれが長屋アニーさんだった。
80年代もほぼ終わりの頃だろう。

長屋アニーさんは、聡明なひとだったなあと思う。
旦那さん長屋倫(ヒトシと読む)さんで、当時NIKEのデザイナー。
なんで、あんなにNIKEの靴は細長なの!? なんてことを言うと、うちのダンナがぴったりのサイズに作ってるから! と。
写真ではわかりにくいが、よく間違えられるひとに「松任谷由実」だそうで、それには嫌な顔をしていた。
父親がNIKONの技術者だったため、小学校から中学校を香港、その後もアメリカ(カナダだったか)で過ごしていた。
父親が寂しいからと連れて歩いていたようだが、父親のことを相当尊敬していたし、大好きだったと思う。
東放学園専修学校だったろうか。放送関係の学校に行き、その頃に声優のサインなんかをもらいにスタジオへ行ったりしていた。「ガッチャマン」が好きで、森功至さん、井上和彦さんらが人気の頃。第一次声優ブームかな。
そこには、鈴鹿レニ(ペンネーム。今は香港在住)さんなんかもいて、漫画家で稼いでいた鈴鹿さんにはパフェやお茶なんかをずいぶんご馳走になったという。
鈴鹿さんはその後森功至さんと結婚するのだけど、それはまたの話。

当時「銀色世界」の特派記者をやっていた長屋さんは、ジャッキー・ファンに教える広東語講座、香港からの毛はえ薬の輸入、そば屋のバイト・・・・なんか本当にいろいろやっていた。
NIKEのダンナとともに、ログハウスでペットホテルをやるというのはかなり前からの目標だったのだろう。

どういうきっかけで「銀色世界」特派記者になったのか忘れてしまったが、香港スタアがお忍びで来日するときに「お買い物つきあって!」などの電話もかなりあったと聞いている。でも、やっぱりスタアだし、かなり気を使うから~と断っていたことも多い。
この頃の字幕翻訳はかなり手がけていると思う。
残念ながらググっても出てこないのだけど、ジャッキー以外の香港映画だ。
香港映画などは、それをいったん英語にしてから日本語に訳すのも多いし、中には広東語から北京語、それから日本語というのもあり、どちらも違った翻訳になってしまうという。
字幕翻訳は、ワード(文字数)かタイムかで料金が決まるのだけど、ワードでもタイムでも、アクションシーンがあると「もっと戦え!」と心の中で叫ぶのだとか。

ご近所ということもあるし、行けば猫がいっぱいいて、猫の飼えないアパート暮らしの自分には猫喫茶みたいな感じだった。
「愛犬の友」の取材で新日本プロレス道場に行ったり、集英社のパーティーに行って淀川長治さんとの写真を撮ったり(しかも、「先日試写会でご覧になっていただけましたよね。どうでしたか?」と長屋さんが言うと「それ、ボク、見ましたっけ?」という淀長節を目の当たりにして。以前にも書いたツーショットの時に手を握って腕をあげると、「これじゃゲイみたいよね」と言って、周りが凍りつくという恐ろしい思い出もここ)。

もの凄く優しいひとだったし、落ち着きのない自分に対しても、話を合わせてくれて、きついことを言われたことはなかった。
振り返ってみれば、自分は落ち着きのない犬みたいなものだったんだろうと思う。
今落ち着いたかというと、黙っているのはどちらかというと生命力の衰えみたいなもので、ほとんど変わりはない。僅かではあるが(自分が思う)大人に近づいたと思いたいが。そんな落ち着きない犬のようだからか、自分にもずいぶんいろいろ声をかけてくれたと思う。
愛犬ゴンが亡くなったときの動物霊園にも行った。
立川か三鷹か、あの時は倫さんがものもらいで。
結構キツく言うもんだなーと思ったし、その後も那須でも見たけれど、そういう夫婦はよくいるし、きつく言うだけで、深い信頼はあったと言える。
旦那さん、おとなしいひとだし。
将来、ログハウスであるとかペットホテルをしよう(ブリーダーも)というのも、今度聞いてみようと思う。
ズバズバものを言うのは・・・お母さん(にも何度か会った)にも似ているなと。
12年くらい前に、僕の母とともにログハウスに寄ったことがあった。そのときに渡したトマトが凄く美味しかったらしく、自分の名前が出るたびにトマトの話をしていると聞いたっけ。

英語・広東語(書き言葉での中国語)で、僕はもう何度も細かく翻訳をお願いしてきた。本当にありがとう。今もうっかりすると、何かの英訳、何かの中国語訳をお願いしてしまいそうだけど。
頼みやすかったし、話をすると何かこうほっとするからだった。

僕もいずれ鬼籍に入る時には、その少し前に「そんなに悪くないよ」と言いに来て欲しいと思う。動けない落ち着きのない犬に接するように。本当にそう思う。

アニー小姐,再見!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?