思い出すことなど(12)

翻訳に関する思い出を「思い出すことなど」と題して、色々と書いていきます。順不同かもしれません(最初のうちは、以前、Webマガジンに書いたものの転載です)。 

(前回の続き)

主任に「辞めます」と言ったんだし、これで会社、辞められるぞ、よかったよかった・・・。あとは待っていればよいのだと思った。ところが、待てども待てども、何の動きもない。一ヶ月、二ヶ月過ぎても何も言われない。もう年度末の退職はあきらめなくてはいけない時期になってしまった。仕方がない。さすがにたまりかねて私は主任に尋ねた。

「あのー、退職の件なのですが・・・」

細かくどういうやりとりをしたかは忘れたが、とにかくわかったのは、私が退職を望んでいるという話は主任のところで止まっていて、その上の課長などには一切、話が通っていないということだった。結局、長い間、何も進んではいなかったのだ。
私はまだ若すぎて、大人のやり方を知らなかった。大人はかたちの上では約束を守っても、結果的に約束を破る、というやり方をする。やっておくよ、言っておくよ、と言っても「いつまでに」を明確にしておかなければ、いつまででも引き伸ばされることがあるのだ。かたちの上では、「引き伸ばした」だけであり、約束を破ったわけではない。だが、それは結局、約束を破ったのと同じである。うかつだった。さすがに頭に来て、「すぐに課長に話してください」と頼んだ。主任は話し、私はすぐに課長に呼び出された。

「何、夏目、会社辞めたいって?」
「はい」
「そうか・・・ちょっとどこかでゆっくり話をしよう」

そう言われ、会社そばの居酒屋(と言ってもかなり良いお店)で夜、課長、主任と話をすることになった。

「夏目さあ、日本はねえ、終身雇用なんだよ」

座るなり、課長に言われた言葉。まだ、この言葉に力が残っている頃だった。一応、名の知れた会社ではあるし、大問題を起こさなければ定年まで安心して生きていくことができる、当時はそう確信できた(皆が知っているとおり、間もなくそういう時代は終わったわけだが)。しかし、その事実自体がその頃の私にとっては耐え難いことだった。安心っていうけど、それって刑務所に入っているのと何が違うんだろう、と思ったのだ。好きでもない仕事に一日の大半を取られ、一箇所に閉じ込められてどこへも行けない。ただ、生存だけは保証されている。そんな人生の何が面白いのか。先も見えている。それならば今すぐ人生を終えても大差ないじゃないか。若いのですぐにそこまで思いつめる。
焦った私は、課長に向かい必死に話した。自分がどうしても翻訳の仕事をしたいこと。そのためにこの一年くらい最大限の努力をしてきたこと。自分は間違いなく翻訳に向いていること。申し訳ないが、今のままでは会社にも貢献できないし申し訳なく思っていること・・・。
小一時間は話しただろうか、さすがに疲れて少し言葉が途切れた時に課長は言った。

「そうかあ、なるほどわかった。しかし、夏目ってバカなのかと思ったら、結構真面目に考えていたんだねえ」

その時、はじめて自分が課長に「バカ」だと思われていたことを知った。いや、確かにバカかもしれないけどさ。

「でもえらいよ。仕事しているふりして、端末だけ叩いて適当に時間過ごしているやつばっかりなのに」

このセリフにも驚いた。そうだったのか。仕事に身が入らず、役に立っていないのは自分だけで、他の皆はてっきり熱心に取り組んでいるものと思ったら、なんだ、そうだったのか。

ちょっと力が抜けた。

―つづく

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横浜で翻訳業を営んでおります。最新訳書『6時27分発の電車に乗って、僕は本を読む』『脳はいいかげんにできている』『ヨーロッパ炎上』など。saku saku大好き。トミタびと村民。ベイスターズファン。
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