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”共感”のその先へ行きたくて

共感の時代

「共感」というキーワードが至る所で語られるようになって久しい。

共感資本主義、共感を呼ぶコンテンツ...今の時代において共感は大正義だ。

世界でひとりぼっちだと思っていた自分の感情を世界に放ったとき、誰かが共感の声をあげてくれた時の喜びのあたたかさは果てしない。
だって、世界の誰にも必要とされていなかったと思っていた自分という存在まで価値をもったような気持ちにさせてくれるのだから。

インターネットは世界を結んだ。今まで行き場がなくてひとりぼっちだった1/100の感情と1/100の感情が出会った時、ひとりぼっちはふたりぼっちになる。そんな出会いを編み合わせていくとやがて大きなネットワークになって、気づいたら僕たちは大きな円になる。そんな心地よさと豊かさを僕たちは得ることができた。

共感の心地よさと対称に見えなくなるもの

共感の心地よさにひたっている時は、これで十分だって気持ちになる。
だけどふとしたときに浮かんでくる、「これでいいんだっけ?」っていう不安な気持ち。

1人ぼっちの共感が集まると、それはやがて新たなマジョリティを社会に生み出す。

どこかの誰かが多様性を認め合うことを望む人が集まる会合で、こんな風に言ったらしい。
「ここには(多様性を認め合いたいと願う)似た者同士しかいねぇじゃねえか!」

孤独からの解放や多様性を願ってやまなかったはずの僕たちはいつの間にか同質性とマジョリティの渦の中心にいる。

それと同時に共感をベースにした会話は「共感より先にある感情」や「考えを交わすチャンス」を闇に葬りさってしまうような気がするんだ。共感の心地よさ故に。

真の喜びは共感の先にある

僕は、共感の先にある感情や想いにふれたい。

例えば「ラーメンって美味しいよね」って会話をしている相手は塩ラーメンが好きかもしれないし、味噌ラーメンが好きかもしれない。
実はスープとメンマが織り成す絶妙なバランスが好きなのかもしれない。

今、共感を交わしている相手は、解像度を上げていくと全然違うことを考えていたり異なる価値観をもっているかもしれない。
だって、人が生きてきた人生と個性の数だけ、違った見え方や感じ方があるのだから。

そうやって予想もできない想いにふれたとき、世界がぐわっと広がるような喜びと高揚感の風が吹いてくる。
自分の世界の見え方が変わったり、自分のが好きなものすらぬりかえられてしまうような出会いをしたとき、他に変えようがないくらい胸がふるえるんだ。

自信がないときは共感のコミュニケーションは心地いい。だけど自分の足で立てるようになってきたら、自分の想いをなぞる心地よさより、自分が脱皮して新しい自分に変わっていくような心地よさにふれたくなる。

そんなことを考える僕は、ないものねだりの贅沢ものなのかもしれない。

だけど今はそんな贅沢にふれて、存分にかみしめたいって思ってやまないんだ。

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