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ドクター・サンクスギビング

 時間がなかった、時間がなかっただけなんだ。成り行きでやったことだから私は悪くない。仕方のなかったことだ。
「クソッ!」
 パソコンを見ながら私は手に持ったマウスを床にたたきつけた。画面にはNMRスペクトルが表示されている。その結果は、本来あるべきケミカルシフトが表示されていない。つまり私が論文で発表した化合物は合成できていない。深夜2時の研究室には私以外誰もいない。蒸留器と乾燥機がゴウゴウと唸り、無意味となった溶液をかき混ぜるマグネチックスターラーの音がカラカラと響く。それすらも腹立たしくて仕方がない。なぜ私が、こんな仕打ちを受けなければならない。たしかに論文のNMRスペクトルを少し書き換えたのは事実だ。しかしあれは、たまたま出なかっただけで、本当は合成できていたのだ。それなのに研究室の部下たちは、私が学会発表する場で突然立ち上がり「我々ハヤシ研究室の研究員、学生は全員、ハヤシ教授の研究結果を一切認めない!」と叫んだのだ。あのときの、周囲の人間の驚きの目、ざわめき、その後の嘲笑を含んだ笑い・・・・・・
「クソッ!」
私は机を殴った。ゴットハンドと呼ばれた私の能力を妬んだだけだ。だから1週間以内に合成しろという無茶な指示にも従ってやった。だがその締め切りまであと2日。時間がない。天才としてこの大学、学会、世界に名を馳せた科学者が、こんなことで無様に討ち死にするわけにはいかない。
 苛立ちながらポケットからタバコを取り出すと、1枚の名刺が落ちた。それを拾い上げる。やはりこれしかないのか。この名刺の男は、昼間突然、私の前に現れた。右頬がケロイドで赤くただれた白髪の男。噂には聞いていた、凄腕の闇ポスドクが実在したことには驚いた。

そして男はこう言った。
「3000万だ」
驚く私に、名刺を渡しながら。
「3000万でその化合物を合成してやろう。金を払うか、学会から追放されクビになるか、お前が選べ」

【続く】

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