もう、自分をゆるそう

『あした死ぬかもよ?』という本がある。

自分の最期を想像して、後悔することはなんだろう。それがわかったら今を生きよう。

そういうメッセージの本だ。


元気なときは「なんでこんな本買ったのかなー」なんて思い飛ばせる。

でもすこし心の迷いが出てくると、どういうわけかこういう本に吸い寄せられるのかもしれない。


ベッドに横になって、もう死ぬときのことを想像する。そんなエクササイズが本の冒頭にある。

たしか昔に読んだときは実際に寝転がらなかった気がする。電車で読んでいたから。

でも今日はやってみることにした。

実践してみて、いくつか気づいたことがあるから書き残しておこうと思う。


寝転がって最初に思い浮かんだのは、いま僕のそばにいてくれる恋人への感謝だった。

死ぬときにひとりじゃない。これがどれだけありがたいことか。

いままで積み重ねてきた笑顔が、最期の別れをネガティブなものにさせなかった。感謝というポジティブな感情だけが生まれた。

ただただありがとう、と。あなたといられたことは本当に幸せだったと。

素直にこころの底から、そういう言葉と感情がうまれてきた。


つぎに頭のなかに浮かんだのは、母親への感謝だった。

ぼくが胎児だったころ。流産しかけたことがあったらしい。医者にはあきらめろと言われたほどだった。

でも母は3000g以上の大きな子として生んでくれた。それだけで感謝の念が尽きることはない。


でもそれだけ感謝をしているからなのか。

その次には謝罪の念が出てきた。

申し訳ない。こんな子供に育って申し訳ない。

あなたの育て方が間違っていたわけじゃない。ぼくの生き方が下手だったからこうなったんだ。だからあなたは自分を責めないでほしい。

そう思ったら涙がとまらなくなった。

どうか、母が最期のときを迎えるとき、自分を責めないでくれたら。

どうか、私はいい子を育てられたと思ってくれたら。

母が安らかに眠れなかったら、きっとぼくは一生十字架を背負って生きることになる。


こんな考え方は悲観的だと思うかもしれない。

だけど、こういう想いも日々の原動力になる。不思議と生きる力がわいてくる。


少し涙がとまってから。ぼくは視点を変えてみた。

ぼくが自分の子供に同じことを思われていたらどうだろうと。

自分の子供がぼくに謝罪の気持ちを持っていたらどうだろうと。


多分まっさきぼくはこう言うと思う。

「なにをいってるんだ。お前がいてくれるだけでどれだけ生きる力になったか」

「謝ることなんてない。お前は自分の好きなように生きればいい。許されるために生きなくていい」


これが真理であるように思えた。

両親はここまで大切に、何の見返りも期待せずに育ててくれた。

それはまさに「生きているだけで恩返し」になっているからではないだろうか。

親が子に謝ってほしいと思っていたら、きっとぼくはもっと両親と疎遠になっているはずだ。

母に何かプレゼントしても申し訳なさそうな反応をするのは、きっともうすでに「日々与えてもらっている感覚」があるからなんじゃないだろうか。


だからといって親孝行をしなくていい、とは言わない。いつかウサギが好きな母を大久野島に連れて行ってあげたい。家族全員で笑顔の写真をとりたい。

だけど、変に肩ひじをはって、親孝行しよう!なんて思わなくてもいいと思えた。ただ両親とコミュニケーションをとって、笑っていればいい。

自分が好きなように生きて、笑っていたら、きっと母も笑っているのだろう。

そう思える時間だった。


たぶんこういう素直な気持ちは母にはいえない。おそらく母もびっくりするだろうし、泣いてしまうだろうから。

言うとしたら、結婚式のときだろうな。


ぼくは死ぬときにこう思っていたい。

「かあさん、生んでくれてありがとう。ぼくはここまで生きてきた。幸せな家族にも恵まれた。」

「ぼくは一生懸命生きて、一生懸命に笑った。ぼくはいい人生を送れたよ」


自分が自分の生き方に誇りを持てること。

それが最大の親孝行だと、ぼくは思う。

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