根源的な肯定

 2022年9月27日。殺された前々首相の国葬実施日に私は反対デモに参加した。午前中はデモ開始地点から九段下の方面へ、数万人の参加者が織りなすデモの列の一人として声を上げ、午後はそこから移動して国会正門前でのデモに参加し、やはりここでも反対の意を唱えるデモ参加者の一人として声をあげた。民意を示す中で私が感じたことは「人間は対立し、いがみ合うしかできないのか」ということである。午前中に私が参加したデモ行進では進路上「国葬擁護」を主張する団体が声を上げていたため、進路上で双方がぶつかるのを警察官が必死に止める、という一面があった。またのちの報道でしか確認していないのだが、国葬に献花する人々も大勢いた。国葬賛成(とわざわざ言う人はあまりいないのかもしれないが)派として献花する人と国葬反対派としてデモという形で声をあげる人。そして「国葬擁護」派としてやはり力強く自らの主張を展開する人。大きく三者が強度の差はあれ、各々が己の思想信条に基づき、行動した。そしてそれは対立であり、分断であり、排撃であった。それが2022年9月27日の私の印象である。
 
 人間は己の思想信条によって他者と対立し、排撃する以外の道はないのだろうか。我々はもっとラディカルにわかりあえないのだろうか。帰宅した私はこの疑問に何とか、当座のものでも構わないから回答がないか考えた。私は思い出した。デリダである。夏休みに読んだ『デリダ 脱構築と正義』(高橋哲哉 2015年 講談社学術文庫2296)である。高橋哲哉氏によれば『ユリシーズ・グラマフォン』においてデリダはジェイムズ・ジョイスの小説『フェイガンズ・ウェイク』『ユリシーズ』の登場人物に注目し、"Oui"という肯定の発話がもつ根源的な肯定性、その反復による”Oui”、つまり”Oui”を投げかけられた他者の”Oui”という返事の反復が他者に、己に責任をもたらすことを見出すと指摘する。要は”Oui"と発すること、それに返事することは互いに互いの存在を肯定し、記憶にとどめるという形である種の責任をもたらす、ということである。『ユリシーズ・グラモフォン』から引用しよう。

 「ウィが自分自身を語りうるのは〔ウィがウィと言いうるのは〕、それが自分自身〔ウィ〕を記憶にとどめると約束する場合を措いてほかにない。ウィの肯定は記憶の肯定なのだ。その声を再び聞かせるためには、ウィは保存され、繰り返され、その声を記録するのでなければならない。」

(ジャック・デリダ『ユリシーズ・グラモフォン』2001年(合田正人:訳) 法政大学出版局 P.105より引用:太字部は邦訳では傍点強調)

これだ、と私は思った。意見の対立によって互いに互いを排撃するのではない、根源的な肯定。つまり、その言明が私に向けられているという認識―「肯定」、それへの応答―「肯定」、その私の応答への応答―「肯定」。意見が自分と同じか似ているか、違うかは関係ない。応答という「肯定」そのもの。応答という他者の存在そのものを肯定するラディカルな肯定。そこに人間が互いを排撃することなく、ラディカルに分かりあうための根源性があるのではないのか。

 国葬については様々な意見があったであろう。賛成派、反対派、無関心派に大別できると思うしその各々において意見のグラデーションはあったにせよ、その意見の対立が仮にあるにしても、「対立」という応答がある時点でそれもまた根源的な「肯定」をなしている。そこに自覚的であることに私の回答がある気がした。というかここまでいってきた根源的な「肯定」とは他者の存在そのものの肯定なのだから、これが成立しないという状況はありえない。ちなみに「無視する」という動詞があるがこれも「~を」という目的語、つまり無視する対象がいないと成立しないわけで、したがって「無視する」ことも他者の肯定を伴うということになる(したがって国葬に無関心な人も、国葬という現象を知る限りで無関心たりえない。詭弁のようだがそうだと考える)。
 とここまで考えたはいいが、その先が現状見つかっていない。この根源的な「肯定」に自覚的に、他者に寛容になりましょうなんて言うのは私の嫌いなモラル、説教のようで結論として避けなければならない。さてどうしようか。これが来年へ持ち越す一つの宿題である。


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