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メモ:前島 小説の面白さについて

(前島)
文学フリマ東京37で短編小説を書いてから考えたことがある。というか、次はこんな感じの書きたいなっていうのがある。そのメモ。
大学時代にジグムントバクマンを読んでいて、社会科学の役割について、文学にも似ていると言っていて、「世界を包んでいるベールを引き裂くこと」と書いてあったことを覚えている。その時はなんとなく理解してた。確かに好きな社会科学はこれまで自明とされていた常識に対して疑うことから始まってた。
要は常識を引き裂いて、社会というものをむき出しにするってことなんだなと理解してた。現代社会の実態を晒すって言うかそんな感じ。
でも文学についてはよく分からなかった。確かに小説に関して言えば社会的な要素が(そこに他者同士の関係があれば社会と呼ぶべきだろうか?)不可欠だと思う。
いま考えると、「推し、燃ゆ」なんてのは社会学的でもある。ここの整理・言語化は難しいけれど、突き進むわ。「推し」について物語を使って説明する小説ではない。むしろ「推し」によって個人が引き裂かれるような感覚を描くことが小説(ひいては創作)の醍醐味なんじゃないかと考え始めている。その「推し」というシステムによって個人がむき出しになる瞬間を狙っていると言いますか…。まぁだからといって、それを読めば社会(現実)について分かるわけではないけど。ヒューマニズムが根底にあるだろうし。
共感は、感傷的な言葉の羅列によって成立するわけではなく、想像力によって達成して欲しいし、だから俺はそういう小説を書きたいわ。こうやってマクロ的にはいくらでも言えんのよ。実際に取り掛かるのが、やるのが1番しんどいんだから。
だから制度的な障害をどんどん書くべきなんだよな。人間についてじゃなくてさ。わたしは悲しい→なんで?→こういうことがあったから。の最後がシステムの方がいいよなって。恋人と別れたとかじゃなくてその恋人との間のシステムがでるといいよね。その方がなんか逆にポエティックで人間的になるんじゃないかなとか感じてる。よく分かんないけど。
だから閉じた小説じゃなくて、開かれた小説書きてー。ワナビーなんだぜ。
ルシアベルリンめっちゃ好きかも。