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KGB離脱者ユーリ・ベズメノフが80年代に語った「マハリシと瞑想」オバマゲート・リポート番外編

オバマゲート/スパイゲート/FISA濫用は、遡ればJFKの暗殺、もっと遡ればジェームズ・フォレスタル初代国防長官の不審死(暗殺?)へと繋がります。

ディープステートの歴史的なルーツとなれば、それもう古代のモレク信仰グループまで遡ることになってしまいます。

しかしこの記事では、冷戦時代に存在していた旧ソ連のスパイ機関KGBの内部告発者ユーリ・ベズメノフが、ソ連崩壊の7年前に語ったインタビューから、ディープステートの近代史を学んでみようと思います。

動画の概要欄:これは、G・エドワード・グリフィンによる衝撃的なビデオインタビュー「ソビエトによる自由世界の報道の転覆」(1984年)である。インタビューを受けているのは、元KGB将校でソビエトからの亡命者であるユーリ・ベズメノフであり、彼は西側社会全体に対するKGBの破壊戦術を公然と明らかにすることを決意した。ベズメノフは、ユダヤ系マルクス主義のイデオロギーがいかに経済を不安定化させ、意図的にアメリカを数々の危機に追い込んでいるか、いかにアメリカ人のほとんどが自分たちが攻撃を受けていることに気付いていないか、そして通常の議会手続きでは連邦政府の方向性を変えることができないかを説明している。彼は次に、マルクス主義の指導者たちが情報提供者を使って、反共産主義者やその他の政治的に邪魔な人々のリストを作成し、彼ら(実際にはユダヤ人の寡頭政治)が権力を握ってから処刑する計画であることを説明している。寡頭政治家の秘密のリストには、「公民権」活動家や理想主義的な「役に立つ馬鹿」左翼も含まれている。ベズメノフは、マルクス主義の指導者たちがお互いに処刑や投獄をしあっている実例さえも、いくつか紹介している。また、アメリカ大使館の職員がいかにして亡命しようとしているソビエト人を裏切ったか、ソビエト政府に「憎しみのトライアングル」が存在したことや、マルクス・レーニン主義が殺人的な教義であることになぜ気付いたのか、CIAがいかに共産主義者による転覆行為を無視していたか(あるいは気にしていなかったか)などについても説明している。彼はまた、歴史上の革命は決して多数派の運動ではなく、良くも悪くも権力を掌握した少数の献身的で高度に組織化されたグループのもたらした結果であることにも言及している。次に、彼はアメリカのマスメディアがどのようにしてソ連の生活について嘘を広めたかを説明している。ベズメノフ氏はまた、ロシアの人々が第二次世界大戦での勝利を誇りに思っていると主張したLOOK誌の記事が虚偽であると語り、実際には、ユダヤ・ボリシェヴィキ・共産・マルクス主義政府は、ヒトラーが敗北したことで自分たちが権力を維持できるようになったことを喜んでいたと説明している。KGBがどのように様々な個人を利用して西洋社会のモラルや価値観を弱体化させたのかを知ることができる。

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ユーリ・ベズメノフ:左が私の父です。父はソ連陸軍参謀本部の将校で、モンゴル、キューバ、東欧諸国などに駐留していた ソ連陸軍の監察官をしていました。

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これは私の東洋言語研究所の入り口で撮った写真です。これはモスクワ国立大学の一部で、ソビエトの学生は皆、カザフスタンで「穀物収穫のボランティア」をしていることになっていました。

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学校での訓練が終わる頃には、KGBにスカウトされていました。

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この写真はその日に撮影されたもので、KGBに採用された時の嬉しさを改めて感じることができます。

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テーブルの上のボトルの数に注目してください。私の仕事の一つは、外国人客がモスクワ空港に到着した瞬間から、ずっと酒に酔わせておくことでした。

バーニー・サンダースも1988年にソ連を訪れた際に、半裸でそのような接待を受けていた映像が残っています。

ユーリ・ベズメノフ:1967年にKGBはこの雑誌、LOOK誌の取材を私に受けさせました。

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アメリカから12人の使節がやってきて、十月革命(ロシア革命)50周年記念を取材していきました。

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最初のページから最後のページまで、嘘が詰め込まれました。

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「騙すことが私の仕事 パート1 ソビエト集産主義の生活」
G・エドワード・グリフィン:
ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ベズメノフ氏にお話を伺います。彼は1939年にモスクワ郊外で生まれ、ソ連軍高官の子息でした。彼はソ連のエリート校で教育を受け、インド文学とインド語の専門家となりました。彼はノーボスチという国有通信社で素晴らしいキャリアを積みましたが、それはKGBの表看板でもありました。

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G・エドワード・グリフィン:彼の興味深い任務の一つが、モスクワを訪れた外交官の洗脳でした。その手法や、植えつけた情報が、最終的に自由世界でどのように報道されていたをお話頂きます。彼は1970年に西側に亡命しました。ソ連のシステムに完全に嫌気が差したのです。これは命がけの亡命でした。ソ連のプロパガンダと偽情報戦略について、彼の右に出る専門家はいません。では、ベズメノフさん、まずは子供時代のお話からお聞かせ願えますか。

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ユーリ・ベズメノフ:私の幼少期はちょうど第二次世界大戦後でした。ソ連にとってアメリカは、ナチスの打倒を手助けしてくれた友好国から、一夜にして致命的な敵国へと変わったのです。それは衝撃的でした。なぜなら全ての新聞が、好戦的で攻撃的なアメリカ帝国主義のイメージを提示し始めたからです。私たちは皆、アメリカが私たちの「自由で美しい社会主義国家」を侵略しようとしている攻撃的な国だと教わって育ちました。アメリカのCIAが、ソ連のじゃがいも畑にコロラドハムシを投下して、収穫を台無しにしているのだと教わっていて、当時の学生は皆コロラドハムシの写真が印刷されたノートを使っていました。そして私たちは畑に行って、コロラドハムシを探して捕まえるように言われたものです。もちろん、全く見つかりませんでした。じゃがいももあまり収穫できませんでした。それも再び、退廃した帝国主義者の侵略のせいだと説明されました。ソビエトのプロパガンダにおける反アメリカの妄想とヒステリーはかなりのもので、疑うこと知らない多くの人々は、アメリカが今にも侵略してくると本当に信じていました。そして内心ではそれを期待している人々もいましたよ。

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G・エドワード・グリフィン:アメリカの生活と共産主義の下での生活の違いについて、あなたの経験から、どんなことが言えますか?

ユーリ・ベズメノフ:明らかに大きく違います。理由は単純です。ソ連は経済的には国家資本主義なんです。そこでは市民には全く何の権利もなければ、何の価値もないのです。人の命が意味を持ちません。昆虫と同じです。使い捨てできるのです。一方でアメリカでは最悪の犯罪者でも人間として扱われ、公正な裁判を受けることができます。犯罪を資本化して、刑務所で回顧録を出版する犯罪者もいるくらいです。日常生活での違いは、その人の立場によって様々です。私個人は共産主義に苦しめられたことはありません。なぜなら軍の高官の家庭で育ったからです。私には多くの機会が開かれていました。必要な経費の多くは政府が支払ってくれました。行政や警察とのトラブルもありませんでした。私はいわゆる「社会主義システム」の良い部分だけをエンジョイしていたのです。私が亡命したのは倫理的な憤りからです。ソビエトのシステムの非人間性への反抗です。

G・エドワード・グリフィン:具体的には何に反対なのですか?

ユーリ・ベズメノフ:一つは自国の反体制論者や知識人に対する全ての抑圧です。それが、私が目撃して最も胸が悪くなったことです。私の学生時代はスターリンからフルシチョフへと政権が移り変わった、私たちの歴史上最も厄介な時期でした。完全な専制と抑圧から、ある種の自由化への変化があった時代です。二つ目に、私がインドのソ連大使館で働き始めた時、人類の歴史上、どの植民地支配もしくは帝国主義よりも、何百万倍もソ連が抑圧的であったことを知り、戦慄しました。ソ連がインドにもたらしたものは、自由や進歩や国家間の友好ではなく、人種差別と搾取と奴隷制でした。もちろん、経済的な非効率性ももたらしました。

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ユーリ・ベズメノフ:私はインドのことが大好きになりました。KGBの基準では極めて危険とされる「分裂した忠誠心(split royalty)」と呼ばれる状態になったのです。それは諜報員が自国よりも任地の国を好きになることです。私は文字通りインドという美しい国が大好きになりました。偉大な謙遜と偉大な寛容さと、哲学的・知的な自由を持ったインドという国が。6千年前にインドが高度な文明国であった時に、私の祖先はまだ洞窟の中で生肉を食べていたのです。明らかに私はソ連のためでなく、インドに対してのソ連の残酷な圧政から自身を切り離すために離脱者となったのです。

G・エドワード・グリフィン:スターリン時代の強制収容所とか奴隷労働といったものは、過去の話だとアメリカでは思われています。今でもそれは続いているんですか?
ユーリ・ベズメノフ:ソ連の強制収容所システムは質的には何も変わっていません。囚人の数は変わってきています。これもまた当てにならないソ連の統計です。正確にどれだけの政治犯がソ連の強制収容所にいるのかはわかりません。しかし様々な情報源から確かなのは、どの時代にも2500万~3000万人のソビエト人が、奴隷として捕らえられ、強制労働をさせられているということです。カナダの全人口に匹敵する数の人々が囚人となっているのです。強制収容所が過去のものだと言ってアメリカの大衆を説得しようとする知識人は、害意なく大衆に誤解を与えているのか、単にあまり賢くないのか、どちらかでしょう。それは盲目的であり、知的な正直さを欠く言説です。

G・エドワード・グリフィン:ソ連の知識人や市民はどう思っているのですか?

ユーリ・ベズメノフ:ソ連の国民もこのシステムを嫌っています。痛みを伴い、命が失われるからです。情報や教育がないので、理由はわかっていないかもしれません。しかし心からソ連のシステムを支援している人はいないと思いますね。社会主義をエンジョイしているはずの階級の人々ですら、エリート・ジャーナリストだった私もそうですが、別の理由でこのシステムを憎んでいました。彼らは貧しさではなく、思想的な不自由さや、絶え間ない恐怖、二枚舌や二重人格を強いられることが嫌だったのです。これがソ連の最大の悲劇です。

G・エドワード・グリフィン:ソ連の国民がこのシステムを実際に克服して、刷新できる可能性はありますか?

ユーリ・ベズメノフ:大いにあります。このシステムは早かれ遅かれ内部崩壊するでしょう。どんな社会主義や共産主義やファシズムにも、自己崩壊のメカニズムが内包されているのです。なぜならこのシステムには国民の信頼というフィードバックが欠けているからです。しかしこのソ連のシステムが外部から支えられているうちは無理です。それはアメリカの所謂「帝国主義者」、つまり多国籍企業やエスタブリッシュメント、政府、知識人もそうです。アメリカにはソ連のシステムを支援していることで有名な「学術研究機関」がありますね。ソ連のシステムがこれらの自由と民主主義の裏切り者から良い評判や、資金、テクノロジー、穀物取引、政治的承認を受け続けている限り、ソ連が変化することに希望は持てません。システムの自己崩壊はないでしょう。それは単純に「アメリカ帝国主義」によって養分を与えられているからです。これは人類の歴史上最大のパラドックスです。資本主義世界が活発にその破壊者/破壊装置を養っているのですから。

G・エドワード・グリフィン:ふむ。アメリカについておっしゃりたいことがあるようですね。

ユーリ・ベズメノフ:ええ、そうですとも。

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グローバリストやディープステートといった言葉がまだ存在しなかった36年前に、ベズメノフ氏が語っているのはまさしくそれらについてであり、核心を突いていることがわかります。

ユーリ・ベズメノフ:私が言いたいのは、これは阻止しなければいけないことだということです。グラーグの強制収容システムに囚われて「社会主義者の平等」がもたらす「恩恵」をエンジョイしたくないのならね。その恩恵とは、タダ働きして、体についたノミを取り、ベニヤ板の上で凍えて寝る生活なのです。アメリカ人も目を覚まして、政府にソ連のファシズムへの援助を止めさせなければ、同じ道をたどることになりますよ。

G・エドワード・グリフィン:
あなたがソ連からどのように離脱したのか教えて下さい。危険なことだったんでしょう?

ユーリ・ベズメノフ:危険というよりはクレイジーなことでした。まず第一に、インドにいて離脱することはほとんど不可能なことでした。

G・エドワード・グリフィン:あなたは当時任務でインドにいたのでしたっけ?

ユーリ・ベズメノフ:そうです。私はニューデリーにあるソビエト大使館で報道官として働いていました。そしてソビエトの外交官から離脱することは不可能に近いことでした。自殺行為です。なぜならインディラ・ガンディーが議会を通過させた法律では、「インド共和国の領域内の大使館へは、いかなる国の離脱者も政治亡命する権利はない」と書かれていたからです。これは大きな偽善です。
ユーリ・ベズメノフ:それをよく知っていたので、私は離脱するために最もクレイジーな方法を考えたのです。私はインドで反体制文化(カウンターカルチャー)を学んでいました。何千人ものアメリカの若者がインドに来て、裸足で、長髪で、マリファナを吸いながら、時にはインド哲学を学び、時には単に学んでいるふりをしていました。彼らはインドの警察を大いに苛立たせていました。そしてインド人からは物笑いの種となっていたのです。なぜなら彼らは穀潰しの学生に過ぎなかったからです。私は彼らがどこに集まり、どんな言葉を話し、どんなルーツを持ち、何を吸っているのかまで、注意深く観察しました。そしてある日、私はそのヒッピー集団に加入したのです。それはインド警察の目を逃れるためでした。ブルージーンズを履いて、フリフリのついた長いチュニックのシャツを着て、典型的なヒッピーの格好をしました。髭をはやして、長髪のウィッグをつけました。髪を伸ばしている時間はなかったので。私は保守的なソビエトの外交官から、とても進歩的なアメリカのヒッピーへと突如変身したのです。

G・エドワード・グリフィン:ははは(笑)。

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ユーリ・ベズメノフ:そうして探知されることを避けました。とても興味深い経験でしたよ。でも必要なことでした。なぜなら、経験上言えることですが、ソビエトの離脱者がインドの警察に裏切られることはよくあったからです。そして西側の大使館もまたとても汚い役割を果たしていて、ソビエトの離脱者を裏切っていました。二重スパイとは言いませんが、単に不道徳な人々がアメリカ大使館で働いていて、離脱したいという人々に「自殺行為だからやめておけ」などと説得していたのです。だから私は極めて注意深く行動しなければいけませんでした。信用できる相手は誰もいなかったのです。だからこそ私はこのようにクレイジーな方法で離脱しました。

G・エドワード・グリフィン:未遂で見つかっていたら、どうなっていました?

ユーリ・ベズメノフ:強制収容所送りでしょうね。もしくは、状況によっては官僚やKGBの気まぐれで処刑されていたかもしれません。よく行われたことです。もちろん内密で、表沙汰にはなりません。

G・エドワード・グリフィン:アメリカにはいつたどり着けたんですか?

ユーリ・ベズメノフ:1970年です。アテネでCIAの取り調べを6ヶ月間受けた後でした。FBIもいたと思います。彼らは最初、私をドイツに行かせ、それからカナダに行かせました。それは私が望んだことです。私はアイデンティティを変える必要がありました。ソ連に残してきた家族や友人を守るためです。それに私は少し病的に疑り深くなっていて、ソビエトのKGBとアメリカにいる二重スパイから追跡されていることを心配していたのです。だからできるだけ遠くの地に落ち着きたいと思っていました。私はCIAに新たなIDを与えてくれるように頼み、カナダに移住しました。私は学生でした。多くの職業を転々とし、農場の手伝いから、クリーニング屋のトラックの運転手から、外国語教師から、カナダのモントリオールにある放送局のキャスターまでやりました。

G・エドワード・グリフィン:身の危険はなかったのですか?

ユーリ・ベズメノフ:ありましたよ。約5年後に、KGBに気づかれました。カナダの放送局で働いていることを知られたのです。私は大きな過ちを犯したのです。私はCBC(カナダ放送協会)の海外放送サービスで働き始めたのです。ボイス・オブ・アメリカと似たようなものです。しかもロシア語放送です。当然のごとく、ソ連の監視局がそういった国際放送の新たなアナウンサーはチェックしています。そしてゆっくりですが、確実に、私が「トーマス・シューマン」ではないことが彼らにバレました。そしてソ連の加大使アレクサンドル・ヤコヴレフはピエール・トルドー加首相に陳情して、私の素性を暴きました。トルドー首相は社会主義に寛容であったことが知られています。

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ピエール・トルドーは現在のカナダ首相ジャスティン・トルドーの父親です。カナダはディープステートの浸透が根強く、彼らの主要な駒の一つであることが度々指摘されていますが、これも一つの証拠だと言えるでしょう。

ユーリ・ベズメノフ:CBCの管理職は、とても不思議な、独立国家の代表とは思えない、臆病な対応をしました。彼らはソビエト大使の提案に全て従い、私のソ連への放送内容について恥ずべき調査分析を始めました。そして私の発言の中から、ソ連の政治局に対して辛辣だった部分を発見しました。そして私は辞職に追い込まれたのです。当然、微妙な脅迫もありました。「車を運転する時は気をつけて下さいね。ケベックの交通は混雑してますから。」などとね。幸いにも私は心理学とKGBの活動の論理学には詳しかったので、この種の脅しに恐怖することはありませんでした。それが彼らの最大の狙いだと知っているからです。彼らは離脱者には恐怖を与えようとします。恐怖の種を植えつけて、そこから最終的に、完全に離脱を諦めさせて彼らの工作員にさせるか、あらゆる政治活動から手を引かせるかまで追い込みます。私の場合、彼らはそれに失敗したわけです。私は頑固でしたし、脅しにも対しても、「ここはあなた方の国と同じく自由な国だ。それに私は速く運転できる。」と皮肉で答えましたし、当時のカナダでは銃規制もされていませんでしたから、私は地下室に良いショットガンを備えていました。だから「どうぞカラシニコフ自動小銃(AK-47)でも持って、いつでもお越しください」という態度だったのです。
ユーリ・ベズメノフ:脅迫がうまくいかなかったので、彼らは別のアプローチを試しました。高位のレベルでは、先程話したようにカナダの外交官を通じて。それは成功しましたが、個人レベルでは彼らは失敗したのです。

G・エドワード・グリフィン:それではここから、ベズメノフ氏が持参したスライドを見ながらお話を伺っていきたいと思います。

ユーリ・ベズメノフ:ええ、これらは家族のアルバムの写真もありますし、ソビエト大使館から隠し持ってきた書類もあります。

ベズメノフ氏の幼少時代の回顧はここでは省略します。子供時代はレーニン主義の理想論を信じていたベズメノフ氏も、ソ連の生活水準が一向に改善しないことに、次第に胡散臭さを感じるようになっていったそうです。またベズメノフ氏の父親は愛国的な軍人であり、軍拡には反対で、KGBや外交サービスを経由せずに、直接国防大臣に報告を上げる監察官であったそうです。

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ユーリ・ベズメノフ:私の意見では、父のような軍人はクレムリンの党官僚と比べればずっと非タカ派で保守的です。アメリカのマスメディアがソ連の軍隊が潜在的に危険な敵として描写しているのを見ると、笑ってしまいます。私はソ連の権力構造についてよく知っていますが、それは全く軍ではないのです。もし軍が権力を掌握したら、核軍縮についてもっと分別のある交渉をすることでしょう。そして世界中に展開した多くのソ連軍を引き上げるはずです。

G・エドワード・グリフィン:しかし党官僚やKGBの誰かが、軍に命令を与えると・・・

ユーリ・ベズメノフ:従わなくてはなりません。彼らはプロの軍人ですからね。しかしソ連には憎しみの三角構造があって、それは寡頭政治のトップエリート党官僚、次に軍、その下にKGBなのです。彼らはお互いに憎しみ合っています。そして最も憎まれている一角は、共産党官僚です。彼らは最も侵略的で、老いぼれた誇大妄想患者たちです。彼らなら戦争を起こしかねません。私も驚きませんよ。戦争を起こすのは軍ではありません軍は戦争がどんなものか知っています。少なくとも私の父は知っていました。

ベズメノフ氏のこの発言は、アライアンスが良識派の退役軍人から結成されたというコーリー・グッドの証言や、アライアンス/Q/トランプ政権がディープステートを打倒しようとしているという説に、36年の時を超えて、矛盾なく裏付けを与えているのではないでしょうか。ここから話題は青年期のベズメノフ氏がモスクワ大学の東洋言語研究所で学んでいたことに移ります。

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ユーリ・ベズメノフ:私は言語だけでなく、歴史、文学、音楽さえも勉強し始めました。これはインドの楽器(シタール)の弾き方を習っている写真です。

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ユーリ・ベズメノフ:私はインド人になりきろうとさえしました。大学2年の時です。実際大学の指導員にそうするよう強く促されたのです。なぜなら大学の卒業生は外交官、外国人記者、もしくはスパイとして採用されることになるからです。

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ユーリ・ベズメノフ:他のすべてのソビエトの学生と同様に、私もカザフスタンへ「穀物収穫のボランティア」をしに行きました。これはソ連政府による最大の農政上の失敗ですが、私に選択権はありませんでした。共産主義者が聖書から引用するモットーは「働かざる者食うべからず」だからです。

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嫌な言葉です。社会主義や共産主義が労働者の味方だという誤解は一体どこから生まれたのでしょうか?「勤労の義務」と強制収容所の強制労働は、最初からイデオロギー的に一緒だったのです。生きる(食べる)ために労働しなくてはいけない、ゆえに労働のために生きている、という本末転倒なジレンマの中に多くの人々を閉じ込めている者たちの正体が見えてきます。そしてこの有史以来続いてきた状況を打開するためには、農業や食糧生産に関する先端技術の機密解除しかないのではないでしょうか?そのような技術の特許を「国家安全保障」の名目で葬り去ってきたのも、クリントンやオバマ政権であることは過去の記事でまとめました。また、このソ連の農業政策の話は、ウクライナ問題の歴史を考える上でも重要です。

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ウクライナはずっとディープステートの実験場にされてきた国なのです。その集大成が今、世界規模で実行されています。

しかしその試みは全て、失敗に終わることでしょう。それは献身的にこの「サイレント・ウォー」に参加して、ディープステートの試みを阻止しようとしている全ての人々の実際の努力によるものです。それを軽視したり、疑いの目を向けることが、はたして善と言えるでしょうか?目が覚めたと思ったらまだ夢の中だった、という経験はないでしょうか?「覚醒した」「大いなる目覚め」を経験したと思っていても、私たちの多くはまだディープステートによるマインドコントロールの余韻の中で、まどろんでいる状態なのかもしれません。

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「パート2 プロパガンダとマインドコントロール」

ユーリ・ベズメノフ:ソ連の学生は例外なく、とても広範に肉体的な軍事訓練と民間防衛訓練を受けていました。それはアメリカと違いますね。アメリカには基本的に民間防衛というものが存在しません。ゼロです。
ユーリ・ベズメノフ:ソ連の学生は皆、専攻に関わりなく、4年間この訓練を受けることになっていました。これは学生仲間とモスクワで戦争ゲームをしていた時の写真です。

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ユーリ・ベズメノフ:このプログラムの主な目的は、ソ連に巨大な予備役軍隊を用意しておくためでした。だから全ての学生は少尉となって卒業していくのです。私の場合は、管理職と軍事情報部員としてでした。私の卒業後初の任務は、インドでの通訳として、ソ連の経済援助グループによる精製所の複合施設の建設を手伝うことでした。

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ユーリ・ベズメノフ:当時の私はまだ世間知らずで、理想主義的に、自分がやっていることはインドとの相互理解と協力関係への貢献であると信じていました。私たちがインドにもたらしているものが、新たなタイプの植民地政策であると気が付くには数年かかりました。それは人類史上どの植民地支配や帝国主義よりも、何千倍も抑圧的で搾取的だったのです。しかし当時の私はまだ「それほど酷いものではないだろう。事態は好転するかもしれない」という望みを抱いていました。マルクス主義のモットーを唱えて、全ての国のプロレタリアの結束を呼びかけていたくらいです。

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ユーリ・ベズメノフ:そして私は良い感じのインド人女性とも「結束」しようとしました。

G・エドワード・グリフィン:ふふ(笑)。

ユーリ・ベズメノフ:実際に私はインドの文化やインドの家族生活というものに魅了されていたのです。しかし明らかに共産党には私の遺伝子に関して異なる計画がありました。だから私はこの「美しい」ロシア人女性と結婚しなければならなかったのです。

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ユーリ・ベズメノフ:私のソ連でのキャリアの期間で、私は3回結婚しました。そのほとんどは任務の都合上の結婚で、人事局からの斡旋でした。ソ連では普通のことです。外国での任務を与えられたソ連市民は結婚しなければならず、ソ連に家族を人質として置いておくか、もしくは私のように任務に都合の良い結婚をします。これは基本的にスパイ同士の結婚を意味します。そしてお互いに離脱を防いだり、「退廃的な帝国主義や資本主義による思想汚染」を防いだりするのです。私の場合、この女性のことが大嫌いだったので、モスクワに帰ることがあった機会に離婚しました。そして後に2度目の結婚をすることになります。

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ユーリ・ベズメノフ:インドにいる間、私は広報担当に出世しました。この写真は、ソ連の上司のスピーチを私が通訳しているところです。モスクワでは、私はすぐにノーボスチにリクルートされました。これはプロパガンダとイデオロギー転覆のための、KGBの表看板組織でした。ノーボスチの職員の75%は、KGBの士官でした。残りの25%は、私のように選任された諜報員で、特定の作戦ごとに任命されていました。

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ユーリ・ベズメノフ:これはルムンバ民族友好大学の留学生と話している写真です。

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ユーリ・ベズメノフ:この大学はKGBと中央委員会が直接コントロールしていて、いわゆる「民族解放運動」の未来のリーダーたちを養成し、注意深く選抜する機関でした。写真を見てもらえばわかりますが、全く学生には見えない人々がいるでしょう。彼らは軍人です。彼らは祖国に特派員として戻って、「民族解放運動」のリーダーとなるのです。普通の人間の言葉に翻訳すれば、それは国際テロ組織のリーダーです。

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ユーリ・ベズメノフ:私のノーボスチでのもう一つの活動分野が、いわゆる「進歩的」な知識人、作家、ジャーナリスト、出版社や大学教授などの一団を接待することでした。これはパキスタンとインドの知識人をクレムリンで接待している写真です。彼らのほとんどは、私たち(ノーボスチ)がソ連政府とKGBの代弁者であることを理解していないふりをします。彼らは実際に、彼らの功績や知的能力を買われて呼ばれた国賓かVIPであるかのように振る舞っていました。私たちにとっては、彼らは様々なプロパガンダ作戦に利用できる、ただの売国奴に過ぎませんでした。だから私の左にいる上司の表情からも、あまり敬意が感じられないでしょう?私自身も、とても懐疑的な作り笑いを浮かべています。

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ユーリ・ベズメノフ:典型的なKGBの冷笑です。また新たなイデオロギー洗脳の犠牲者が生まれることを予期している顔です。

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ユーリ・ベズメノフ:これはモスクワにあるノーボスチ本部の典型的な会議室です。真ん中に座っているのはボリス・ブルコフで、ノーボスチの局長であり、党官僚であり、プロパガンダ省の高官です。私は有名なインドの詩人スミトラナンダン・パントの横に立って、通訳しています。彼は「レーニンへのラプソディー」という詩を発表したことで有名でした。だから彼はソ連に招待されたのです。旅費から何からソ連政府が支払っています。テーブルの上の酒瓶の数に注目して下さい。これは外国のジャーナリストの気づきや好奇心を殺すための手段の一つです。私の任務の一つは、彼らがモスクワ空港に到着した瞬間から、ずっと彼らを酒に酔わせておくことでした。友情と国家間の相互理解のための乾杯だと言って、ウォッカをグラスに注いでやるのです。すぐに彼らは上機嫌になって、全てがピンク色の景色に包まれます。その後の15~20日間、彼らをその状態に保つのが私の仕事でした。ある時点で私は彼らからアルコールを抜きます。最も勧誘しやすいタイプの人々は、少し震えて「昨晩は酔って何を話したんだろう」と罪悪感を感じながら思い出そうとします。それがアプローチの時です。あらゆるナンセンスなソ連のプロパガンダを彼らに吹き込みます。彼らが最も言いなりになる時なのです。そして彼らが知らなかったのは、あるいは気づかないふりをしていたのは、彼らと一緒に飲酒していたはずの私は、実は全く酔っていなかったのです。私にはアルコールを取り除く様々なテクニックがありました。例えば特殊な錠剤が私には与えられていました。でも彼らはかなりの量の酒を飲んでいましたよ。そして翌朝には不安な気持ちになるものなのです。

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ユーリ・ベズメノフ:1967年にKGBは私にこのLOOK誌の取材を受けさせました。アメリカから12人のグループがソ連を訪れ、十月革命50周年記念を取材していきました。最初のページから、最後のページまで、嘘が詰まっています。ありふれたプロパガンダとクリシェです。それはアメリカ人ジャーナリストの意見と演繹的結論として、アメリカのリーダー達に提示されました。どれも真実とは程遠いことです。

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利潤導入方式が消費者の要求に応じるために試運転されている)
ユーリ・ベズメノフ:それは全く「意見」とは言えません。ソ連のプロパガンダがアメリカの大衆に思い込ませたいクリシェです。ソ連のシステムに対する微妙な批判も含まれていますが、基本的なメッセージは「現在のソ連のシステムはうまく効率的に機能していて、国民の大多数に支持されている」というもので、それは最大の嘘でした。

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LOOK誌:もし今、ソ連で民主的な選挙を行ったとしたら、やっぱり共産党が勝つでしょう。これは憶測ではありません。LOOKの10人の編集者と写真家が、現地で1年以上観察して、インタビューしたことに基づく結論です。)

ユーリ・ベズメノフ:アメリカの知識人とLOOK誌は、様々な方法で虚実を詳細に説明しました。嘘を「知的なもの」に見せかけたのです。彼らはありとあらゆる種類の正当化をして、アメリカの大衆に嘘を伝えました。

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(遂にやっと、安楽な暮らしを楽しめる時が来た)

G・エドワード・グリフィン:想像するに、あなたの仕事は彼らにソ連のプロパガンダを植えつけて、それを彼ら自身の考えだと思い込ませることだったのでしょうか。

ユーリ・ベズメノフ:ええ。実際、彼らがソ連に到着する前から、天文学的な額の金が彼らに支払われています。そしてノーボスチは「背景説明(backgrounder)」と呼ばれる20~25ページの情報・意見書類を作成して、事前に彼らに提出しています。それは彼らがモスクワ行きのチケットを購入する前からです。そしてアメリカにいるノーボスチの代理人やワシントンD.C.にいるソ連の外交官は、この「背景説明」に対する彼らの反応を分析し、誰にソ連へのビザを与えるかどうかを評価するのです。そうやって事前に注意深い選考が行われています。正直なジャーナリストがソ連の地を踏むことはありません。

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ユーリ・ベズメノフ:これは共産党がソ連を擬人化したシンボルとしてスターリングラードに立てた彫像です。左の記事には「ソ連は第二次世界大戦の勝利をとても誇りに思っている」と書かれています。これもまた大きな作り話であり、嘘です。分別のある人なら、誰も戦争で2000万人の同郷人を失ったことを誇りになど思っていません。ましてその戦争は、ヒトラーとスターリンがアメリカの多国籍企業家から金をもらって始めたことです。ほとんどのソ連市民は、この種の記念碑を嫌気と悲哀の気持ちで見ています。なぜなら全ての家族が親、兄弟、姉妹、子供を第二次世界大戦で失っているからです。それでもアメリカのジャーナリストは、ホスト国を喜ばせるために、アピールしようとしているのです。これがロシア人の魂の象徴だというのは、最大の誤解であり、とても悲劇的なことです。おそらくLOOK誌を読んだ数百万人のアメリカ人は、ロシア人の感情や、ロシア人が何を誇り、何を憎むのかについて、完全に間違った印象を持ったことでしょう。

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ユーリ・ベズメノフ:これがLOOK誌の取材グループです。この写真にも同じ剣を持った女性像が写っているでしょう。私も中央に悪魔のような笑みを浮かべて写っています。左端にいるのはフィリップ・ハリントン氏です。

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ユーリ・ベズメノフ:カメラを持っていますね。彼は私の話に全く興味を示さず、ろくに話を聞いてすらいませんでした。

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ユーリ・ベズメノフ:様々な国から多くの来賓がありました。この写真では、アジアとアメリカからの来賓が、ノーボスチの従業員としての私の案内で、シベリア・ツアーの一環として、「典型的な」幼稚園を訪問しています。アメリカ人の基準に照らしても、何も特別に見えないでしょう。子供たちが座ってランチを食べている様子です。でも彼らが理解していなかったのは、あるいは理解していないふりをしていたのは、これは模範幼稚園であり、ソ連の一般人向けの幼稚園ではないということです。私たちは彼らの幻想を維持していたのです。赤い点の下に、再び私が事務的な表情で写っていますね。私を給料をもらって仕事をこなしていましたが、心の奥底では、少なくともこの「役に立つ馬鹿」たちの中の何人かが、自分たちが視察しているものが本当のソ連の豊かさの水準では全く関係がないということに気づいてくれと願っていました。

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ユーリ・ベズメノフ:これがソ連の子供の境遇の真実を反映した写真です。これはカナダ政府の公報に誤って掲載された写真なのです。子供たちが小さな中庭で遊んでいるのが見えます。キャプションには「これがシベリアの典型的な幼稚園である」と書かれています。この馬鹿どもが理解していないのは、これは全く幼稚園ではないということです。これは政治犯の子供が収容される刑務所の写真なのです。しかし彼らが訪れていた場所が実際は強制収容所のある一帯であったという記述は一切ありません。そして私のような人間の仕事は、彼らが実際に話している相手が囚人であるということを、いかに彼らに気づかせないかということなのです。ほとんどの子供たちは、外国人たちの訪問の時に合わせて、特別に一張羅を着ています。もちろん、地面に死体は転がっていないようにしますし、マシンガンを持った守衛も隠します。冴えない写真ですが、少なくとも刑務所だという印象は与えません。

G・エドワード・グリフィン:好奇心からシベリアの刑務所について質問をする者はいなかったのですか?

ユーリ・ベズメノフ:何人かは質問します。当然のように、愚かな質問には愚かな答えを返します。「いいえ。シベリアに刑務所はありません。」「いいえ。皆さんが目にしているのは幸せなソ連の自由市民です。彼らは社会主義システムの栄光に貢献しています。」と。何人かはそれを信じたふりをしていました。後でまた話しますが、彼らの大半の動機は何なのか?なぜ彼らは頑なにも自国民へ嘘を持ち帰るのか?自国のマスメディアを通じて。これには様々な答えがあります。単一の説明はできません。複雑な説明が必要です。それは恐怖と言えます。純粋な生物学的な恐怖です。まず、彼らは敵国の、警察国家の領域にいるという恐怖があります。彼らの腐った保身のため、そして彼らの惨めな仕事と、帰国後の富のために、彼らは嘘を付く方を好むのです。誠実な質問をして本当の情報を報道することよりもね。二つ目に、これらの卑劣な人間の多くは職を失うことを恐れていました。なぜなら明らかに、ソ連について本当のことを言えば、ニューヨーク・タイムズやLAタイムズの特派員として長くはいられません。クビになります。「どんな特派員だ。ロシア人と共通の言語を見つけることができていない。」と言われ、24時間以内に解雇されるでしょう。だから彼らは編集長と対峙することよりも、ソ連の行政や私のような人間の感情を逆なでしないようにすることを選ぶのです。私は心の奥底ではそれを望んでいたんですがね。

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ユーリ・ベズメノフ:私を侮辱して、気持ちを逆なでしてみろと(笑)。明らかに彼らはそうしない方を好みました。もう一つの理由があります。私は信じたくなかったのですが、明らかな理由です。それは貪欲です。こういった人々は大金を稼いでいます。そしてアメリカに帰国すると、彼らはソ連の専門家であると自称します。「ロシアの真実」みたいなタイトルの本を書いて、何百万冊も売れるのです。内容のほとんどはロシアについての嘘です。それでも彼らはソ連の専門家であると主張し、私たちが与えたソ連の作り話・プロパガンダのクリシェを繰り返すのです。そして頑なに真実の言葉には抵抗します。例えばソ連を離脱、もしくは追い出されたソルジェニーツィンのような人に対しては、徹底的に攻撃して信用を貶めようとするのです。

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ユーリ・ベズメノフ:私も全国放送に出演してソ連についての真実を語る機会を与えられません。しかしヘンドリック・スミスやロバート・カイザーのような「役に立つ馬鹿」は、英雄扱いです。
ユーリ・ベズメノフ:彼らはソ連から帰ってきて、「ええ、私たちはソ連の反体制派とも話をしましたよ」などと宣っています。実際はアメリカの特派員たちは反体制派に道で追いかけられて、臆病にも逃げ回って、接触を避けていたのです。不思議な現象ですよ。スペインについて知りたければ、スペイン人の書いたものを読むでしょう。フランスについて知りたければ、フランス人の書いたものです。南極について知りたければ、ペンギンの書いたものを読むはずです。

G・エドワード・グリフィン:ふふ(笑)。

ユーリ・ベズメノフ:ソ連についてだけは、不思議なことに、ヘンドリックだとかキッシンジャーだとかの本を読むのです。彼らはソ連について詳しいのだと主張しています。彼らは何も知りませんよ。詳しいふりをしているだけです。彼らは誠実さと常識と知的な正直さを欠く、不正直な人々です。彼らは皆、あのシベリアの幼稚園のような話を持ち帰ってくるのです。驚くべき重要な事実は、それは政治犯の子供の収容所だったということですよ。

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ユーリ・ベズメノフ:もう一つ、アメリカの政治家の記念碑的馬鹿としての最大の例は、エドワード・ケネディのモスクワ来訪です。彼は自分のことを人気のあるカリスマ政治家だと思っていました。モスクワの宮殿の結婚式に出席し、リラックスして、笑顔でダンスも踊れるところを見せました。彼が理解していなかった、もしくは理解していないふりをしていたのは、これは偽の結婚式で、外国人メディアやエドワード・ケネディのような「役に立つ馬鹿」に好印象を与えるために設定された芝居だったということです。会場の出席者のほとんどはセキュリティ・クリアランス(機密取り扱い者適格)を持つ者たちで、外国人に対して何を言うべきか指示を受けていました。ケネディは自分が賢いと思っていました。彼の馬鹿ぶりを観察していたロシア市民の目には、彼は矮小な心を持った、エゴの強い馬鹿であり、このプロパガンダに参加することによって人気取りをしようとしているだけだと写っていました。

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ユーリ・ベズメノフ:同じモスクワの宮殿の偽結婚式での私です。右には模範的な偽の花嫁がいます。左にはアジアとアフリカと南米から来た3人のジャーナリストがいます。明らかに彼らはこの状況を楽しんでいる様子です。彼らは自国に帰ってから、「我々は一般的なソ連の結婚式に出席してきた」と報告するのです。実際は茶番劇に付き合っただけです。サーカスのパフォーマンスと同じです。

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ユーリ・ベズメノフ:また別の事例です。こういった話を説明する時、私は自分の命を危険にさらさなくてはいけません。例えばタイム誌は、南アフリカの人種差別政策にとても批判的で、南アメリカの恥ずべき国内パスポート・システムの特集記事を組んで、黒人が白人と同じ地域に居住できないことを糾弾していました。不思議なことに、私がソ連を離脱して以来の14年間、私のパスポートに注意を払った人は誰一人いません。

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ユーリ・ベズメノフ:これが私のパスポートです。国籍が記載されていて、警察のゴム印が押されています。ロシア語で「プラティスカ」と言いますが、これは私が割り当てられた一定の地域に居住することを義務付けるものです。私はその地域の外に居住することはできないのです。これは南アフリカで黒人が居住できない地域があるのと全く同じことです。彼らは南アフリカの人種差別政策は糾弾しても、「ソ連で同じことが行われている」と言う勇気のある者は一人もいません。ジェーン・フォンダだってそんな勇気はありません。私はパスポートのコピーを多くのアメリカのリベラル派(自由主義者)や公民権運動家やその他の様々な「役に立つ馬鹿」たちへ送りましたよ。彼らは一度も、私に返事すらよこしません。このことが彼らの「誠実さ」がどんなものなのかを示しています。
ユーリ・ベズメノフ:彼らは偽善者の集まりです。ソ連で起きている人種問題には目を向けようとしないのですから。

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ユーリ・ベズメノフ:これは大学教授を抱き込む第一段階の時の写真です。左の私はジェームズ・ボンド的な笑みを浮かべています。右にいるのはKGBの上司です。真ん中にいるのがデリー大学の政治学教授です。

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ユーリ・ベズメノフ:第二段階は、ソ連友好ソサイエティの集会に彼を招待することです。彼は妻君と一緒に座っています。この後彼はソ連に送り込まれるわけですが、全てはソ連政府が金を出して、無料の旅となります。彼は自分が才能のある、穏健で知的な人間であるがゆえにソ連に招待されたのだと信じ込まされます。それは全くの虚構です。彼が招待されたのは、彼が「役に立つ馬鹿」だからです。ソ連のプロパガンダのクリシェに同意し、賛同しているからです。そして彼はインドに帰ってから、若い世代の学生たちに次から次へと「美しいソ連の社会主義」、つまりソ連のプロパガンダの嘘を教え込むのです。

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ユーリ・ベズメノフ:KGBはこの紳士にも興味を持っていました。純潔な人に見えるかもしれません。マハリシ・マヘーシュ・ヨギ、偉大なるスピリチュアル・リーダー、もしくは偉大な詐欺師で変節漢と言えるかもしれません。どの角度から彼を見るかによります。ビートルズは彼のインド北部ハルドワールにあるアーシュラム(道場)で瞑想の訓練を受けました。ミア・ファローやその他の「役に立つ馬鹿」たちもハリウッドから彼の学校に訪れていました。そして彼らはアメリカに帰ってから、完全に正気を失って、上の空の状態になっていました。それはマリファナとハシシ、それに瞑想というクレイジーなアイデアのせいです。瞑想するということは、言い換えれば、現在の自国の政治社会問題から自身を隔離するということです。自分の殻に閉じこもって、世界で起きている面倒事を忘れるという行為なのです。明らかにKGBはそのような「美しい」教えを授ける学校に、とても魅力を感じていました。愚かなアメリカ人のための洗脳センターというわけです。私はKGBに派遣されて、どんな種類のアメリカ人のVIPがこの学校に出席しているのかを調べました。

G・エドワード・グリフィン:左にいるのがあなたですね。

ユーリ・ベズメノフ:そうです。私は彼の学校に入学しようとしていました。不運なことにマハリシ・マヘーシュ・ヨギの要求は高すぎました。彼は入学に500米ドルを要求したのです。でも私の任務は実際に彼の学校に入学することではありませんでした。どんな種類の人間が、アメリカからこの学校にやってくるのかを調べることでした。そしてわかったことは、影響力を持つファミリーのメンバー、世論形成をする人々であり、彼らはアメリカにインド哲学についてのクレイジーな話を持ち帰っていたのです。インド人からも彼らは「愚か者」「役に立つ馬鹿」だと見なされていましたよ。KGBは言うまでもなく、彼らのことを極度に単純で騙されやすい、誤って導かれた人々だと見ていました。例えば国会議員の妻だとか、著名なハリウッド・スターなど、そういったVIPがマハリシの学校で訓練を受けた後は、世論操作をする者やKGBにとって、もっと扱いやすく、役に立つ存在になることは明らかでした。この種のフェイク、偽の宗教的トレーニングを見破る普通の人々よりもね。

G・エドワード・グリフィン:なぜ彼らはマニピュレーション(操作)を受けやすくなるのでしょう?

ユーリ・ベズメノフ:今話した通りです。なぜなら、いいですか、内観的な瞑想をやりすぎている人というのは・・・マハリシ・マヘーシュ・ヨギがアメリカ人に教えていることを注意深く見てみればわかりますが・・・「あらゆる問題、今日の燃えさかる問題のほとんど全ては、単に瞑想するだけで解決される」と教えられているのです。「波風を立てるな」「関与するな」「ただ座って自分のヘソを見て瞑想しなさい」と。そして不思議な論理を説いて、「コズミック・ヴァイブレーションによって自然と解決する」みたいなことを言います。

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ユーリ・ベズメノフ:まさしくこれこそKGBとマルクス主義・レーニン主義のプロパガンダがアメリカ人に望むことなのです。彼らの意見や注意力、そして心のエネルギーを、本当の問題からそらせることです。そして存在しない問題、存在しない世界、存在しない調和へと向けさせます。それは明らかにソビエト内の侵略派にとっては好都合です。騙されたアメリカ人の烏合の衆の方が、自意識を持った、肉体的にも健康で、現実に対して油断なく注意を払うアメリカ人よりも侵略しやすいでしょう。マハリシ・マヘーシュ・ヨギはKGBから金をもらっていたわけではないですが、彼はそうと知ってか知らずか、アメリカ人社会の士気喪失(demoralization)に大いに貢献しています。そして彼だけではないのです。何百人ものそういったグルがいます。

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ユーリ・ベズメノフ:彼らはあなたの国に行って、その国のナイーヴさや愚かさを資本化します。それはファッションです。瞑想するファッションです。関与しないというファッションです。KGBがこれに大いに興味を持っていたことは明らかです。彼らは私のインドへの旅費を出し、この不思議な任務を与えたくらいなのですからね。彼らは明らかに、大いに魅了されていましたよ。KGBはこの種の洗脳がとても効果的だと確信していました。そしてアメリカの士気喪失に大変役立つことを。

歴史から学ぶことの大切さを痛感します。戦後の日本の大衆文化は、全てアメリカの文化の輸入でした。しかも翻訳という歪みを加えられています。「ヒッピー文化」や「ニューエイジ」や「チャネリング」や「スピリチュアル」も全てそうでしょう。それらはファンション(流行)でした。

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近年流行りの「ライトワーカー」という言葉に感じる気恥ずかしさや後ろめたさや胡散臭さの理由を、ベズメノフ氏は爽快なまでに見事に説明してくれていました。誰もが「瞑想だけで問題が解決するはずがないよな・・・」と思いつつも、「美しい言葉」を話して「不思議で魅力的」な教えを説く「グル」や、羽振りのよい生活をエンジョイしているセレブ的な「役に立つ馬鹿」たちを見て、なんとなく「そういうものなのか・・・」と納得したり、最悪の場合、隷従してしまうのでしょう。そして次第にやる気や士気やモラルまで喪失し、「役に立つ馬鹿に従う馬鹿」へと成り下がります。ベンジャミン・フルフォードもそのことに気づいているようです。

ロバート・デイヴィッド・スティール(元CIA諜報員):またNESARAとかGESARAみたいな話ではないだろうね。

ベンジャミン・フルフォード:
いえいえ、これは実際の話です。来週の金曜(6/12)にゴールデン・ドラゴンというグループの代表と会います。仲介してくれたのは量子金融システムを運用していると思われるヨーロッパの皇族です。彼らはアジアでは習近平より高い地位にいます。彼ら東側と今ではアメリカの財務省が所有するFRBに代表される西側が手を組んで、新たな金融システムを立ち上げて、地球を浄化する慈善事業を始めてくれることを期待しています。

ロバート・デイヴィッド・スティール(元CIA諜報員):この会話は公開してもいいかい?それとも伏せておいて、来週どうなるかわかるまで待つことにするかい?

ベンジャミン・フルフォード:どうぞ公開して下さい。起きなければ起きなかったというだけのことです。私が言っているのは、そういう会合があって、私たちはそれを実現したいと思っているということなんです。人々にそれを知らせて、この計画のサポートを得ようとしているのです。それが計画の実現の可能性を高めます。6月11日は9.11を逆さまにした日です。皆で9.11と逆の善行をしましょう。

ロバート・スティール:瞑想や祈りのパワーというものについて言われているね。私は感銘を受けたんだが。

ベンジャミン・フルフォード:私は瞑想や祈りのことだけを話しているのではないんです。悪人を逮捕して刑務所に入れるということについても話しています。申し訳ないですが、マシンガンを向けられている時に、瞑想では対処できませんよ。

ベズメノフ氏がマハリシ瞑想を有効な洗脳ツールとしてKGBに報告したのが1960年代のことです。そこからKGB、ディープステートが約50年の歳月をかけてどのように洗脳兵器化し、それを出版社やメディアを使って展開し、インターネットを通じて世界中に浸透させてきたかということを想像してみるべきでしょう。

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「パート3 文化の転覆と逃亡」

ユーリ・ベズメノフ:これはソ連大使館の建物の前で撮った写真で、左はインドの共産主義者、右にいるのは秘密の調査・防諜部の私の監督官です。実際は「調査」とも「防諜」とも全く関係はありません。

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ユーリ・ベズメノフ:その部署の主な活動は、世論形成に役に立つ個人に関する膨大な情報を集積することでした。出版社、編集者、ジャーナリスト、俳優、教育者、政治学の教授、議員、実業家などです。こういった人間のほとんどは、ざっと2つのグループに分けられました。ソ連の外交政策に賛同する者は、権力構造の中で出世していきます。メディアと世論操作を通じてです。そして自国へのソ連の影響を拒絶した者は、誹謗中傷で人格的に抹殺されるか、本当に殺されます。共産主義革命ですよ。ベトナムの小さな町、フエであったことと同じです。

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ユーリ・ベズメノフ:何千人ものベトナム人がたった一晩で虐殺されたのです。その町をベトコンが占拠したたった2日間の出来事です。アメリカのCIAも「どうやって共産主義者は反共的な市民一人ひとりの住んでいる場所を把握していて、たった一晩で逮捕できたのか?」を解明できませんでした。基本的に彼らは夜明けまでの4時間で、市民たちを貨物車に乗せて、郊外に連れ去り、射殺したのです。その答えはとても単純です。共産主義者がフエの町を占拠するずっと以前から、広範囲な密告者のネットワークが築かれていたのです。地元のベトナム人の市民たちです。彼らが「世論形成に影響力を持つ人々」について全てを完全に把握していて、密告したのです。密告され、虐殺された人々の中には、床屋やタクシー・ドライバーも含まれました。アメリカに同情的な人であれば誰でも虐殺されました。同じことがソ連大使館の指導のもと、ハノイで行われました。私がニューデリーで行っていたことも同じです。私がそのことに気づいた時は、恐怖しました。処刑される人々の名前のリストを、ファイルの中に発見したのです。そこには私が個人的に親しかった親ソビエト派のジャーナリスト達の名前もありました。

G・エドワード・グリフィン:親ソビエトなのに?

ユーリ・ベズメノフ:そうなのです!彼らは理想主義的な左翼で、何度かソ連を訪問したことがありました。それでも処刑です。

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ユーリ・ベズメノフ:KGBはインドの政治機構に共産主義革命、思い切った変化を起こすことを決定しました。だから彼らは始末されることになったのです。

G・エドワード・グリフィン:なぜです?

ユーリ・ベズメノフ:なぜなら、彼らは知りすぎてしまったからです。単にそれだけです。いいですか、「役に立つ馬鹿」である左翼は、理想主義的に、観念論的にソ連の「美しい」社会主義・共産主義システムを信じています。その幻想が覚めた時にどうなりますか?彼らは最悪の敵となるのです。だから私のKGBの上官は、特に念を押しました。「左翼のことなどどうでもいい。こういった売国奴は放っておけ。もっと目標を高く持て。」これが私の受けた指導です。確立された大きな保守系メディアに潜入し、大金持ちの映画製作者に接触し、知識人や、いわゆる学界などにいる、冷笑的でエゴが強く、天使のような笑顔で嘘をつくような、そういった人々こそ取り込みやすいのだと教わりました。このような人々は道徳観や道義が欠如しており、貪欲だったり、うぬぼれが強かったりするからです。彼らは自分のことが一番大事なのです。KGBが最もリクルートしたがったのはそういう人々です。

G・エドワード・グリフィン:でも処刑してしまうのですか?彼らは役に立つ存在ではないのですか?

ユーリ・ベズメノフ:彼らが役に立つのは、その国を不安定化させる段階までのことです。例えば、アメリカの左翼には、様々な大学教授や「美しい」公民権運動家がいますが、彼らが役に立つのは国家の不安定化や転覆の場面においてのみなのです。その仕事が完了した後は、彼らは用済みです。もはや必要ありません。
ユーリ・ベズメノフ:彼らは知りすぎているからです。幻想から覚める者が出てきます。マルクス主義者やレーニン主義者が権力の座についた時にね。彼らが気分を害すのは明らかです。彼らは自分が権力者になれると思っていたのですから。もちろん、そんなことは決してありません。彼らは壁際に一列に立たされて、射殺されるのです。しかし、マルクス主義者・レーニン主義者が権力を掌握した時に、彼らは最も苦々しい敵へと変わる可能性もあるのです。それがニカラグアで起きたことです。覚えていますか?以前のマルクス主義者・レーニン主義者たちのほとんどが刑務所に入れられましたし、彼らの一人は分離して、今ではサンディニスタ政権に反旗を翻しているでしょう。グレナダでも起きました。モーリス・ビショップはマルクス主義者でしたが、新たなマルクス主義者によって処刑されました。より強いマルクス主義が取って代わるのです。アフガニスタンでも同じことが起きています。最初はタラキーが政権を取り、タラキーはアミーンに殺されました。それからアミーンはKGBの支援を得たバブラク・カルマルに殺されました。バングラデシュでも同じことが起きています。ムジブル・ラーマンはとても親ソ連の左翼でしたが、自身の同志であるマルクス主義・レーニン主義の軍部によって暗殺されました。同じパターンがあらゆる場所に見られます。目的を遂行した瞬間に、全ての「役に立つ馬鹿」である「理想論的マルクス主義者」は、完全に処刑されるか、国外逃亡するか、刑務所に入れられます。キューバでもそういったマルクス主義者たちが数多く刑務所に入れられていますね。だからソ連に協力していたインド人、特にソ連大使館の情報部に協力していたインド人のほとんどが処刑リストに載せられていたのです。私がその事実を発見した時、もちろん、気分が悪くなりました。精神的にも肉体的にも病みました。いつか爆発して、大使館のオフィスで「私たちは人殺しの集団だ!」と叫んでしまうのではないかと思いました。そして実際そうなのです。インドとの友好だの国家間の相互理解だの、そのようなものとは全く無関係だったのです。私たちは人殺しであり、暴漢の集団のように振る舞っていました。私たちを手厚くもてなしてくれた国で。古代からの伝統を持つ国で・・・私はこの恐ろしさを何とか人に伝えようと思いました。しかし誰も、私の話に耳を貸そうとすらしなかったのです。私は様々な策を試みました。投書で情報をリークしようとしたり、文書を故意に紛失してみたりしましたが、何の反応も得られませんでした。インドの保守系のマスメディアですら報道してくれませんでした。そして私がいよいよ離脱を決意したのは、バングラデシュ危機がきっかけです。アメリカ人の特派員たちはそれを「イスラム草の根革命」などと説明しています。それは全くの戯言です。「イスラム」とも全く関係がありませんし、「草の根」の革命などではありません。そもそも「草の根」運動の革命など存在しないのです。どんな「革命」でも、高度に組織化されたグループの産物であり、それは慎重にプロフェッショナルに組織されています。全く「草の根」ではありません。バングラデシュでもそうです。アワミ連盟はバングラデシュの政党ですが、党員のほんどはモスクワで訓練を受けた者たちです。モンゴル人民党も、南西アフリカ人民機構(SWAPO)も同じです。世界中のありとあらゆる「人民解放軍」が、皆同じ「役に立つ馬鹿」なのです。彼らはルムンバ民族友好大学で教育され、クリミアのシンフェロポリや(ウズベキスタンの)タシュケントにある様々なKGBの施設で訓練を受けています。私がインドにいて目撃したのは、東パキスタンを破壊するために、インドの領土がジャンプ台として使われていたということです。私自身、何千人ものいわゆる「学生」たちがインドの領土を経由して東パキスタンへ入っていくのを見ました。インド政府は見て見ぬ振りです。彼らは何が起きているか完璧に知っていましたよ。インド警察も、インド政府の情報局も、もちろんKGBも、そしてCIAも知っていました。そこが一番腹立たしいところです。なぜなら、私は離脱した時、アテネでのCIAの取り調べに対して「気をつけろ。今にも東パキスタンは噴火するぞ。」と警告していたからです。彼らは「お前はスパイ小説の読みすぎだ。」と言いました。とにかく、東パキスタンは悲劇の運命にありました。

実際にベズメノフ氏が離脱した1970年の翌年に、東パキスタンでバングラデシュ独立戦争が勃発し、そこから第三次インド・パキスタン戦争へと発展しています。

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ユーリ・ベズメノフ:カルカッタのソビエト領事館の私の同僚の一人は、ある時ベロベロに酔っ払って、用を足しに地下室へ行ったのです。そこで大きな箱をいくつか見つけました。それには「ダッカ大学宛の印刷物」と書かれていました。ダッカは東パキスタンの首都です。彼は酔っ払っていた上に、好奇心が湧いて、箱を開けました。彼が発見したものは「印刷物」ではありませんでした。カラシニコフ自動小銃(AK-47)や弾薬だったのです。私がこの東パキスタンへの侵略の準備について知った時、私はすぐにでも離脱したいと思いました。しかしその時点では、いつ、どこに、どうやって亡命するか、決心がつきませんでした。先程言いましたが、インドのことが大好きになっていたことも踏ん切りがつかなかった理由の一つです。私は彼らの言葉を話し、溶け込んで交流していました。

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でも私は気づいたのです。早く行動を起こさなければいけない。私たちがいることによって、この美しい国は永久に、回復不能なまでに被害を負ってしまうと。

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離脱しない理由ならいくらでもありました。ご覧のように、私は比較的裕福に暮らしていました。普通だったらその生活を捨てて離脱しようなどと思わないでしょう。「マルクス主義者だ」「ファシストだ」「誇大妄想だ」と呼ばれ、メディアから虐待を受けてまでね。ニューヨークでタクシー運転手にでもなりますか?何のために私は離脱するのか?アメリカ人にいじめられるために?差し迫る「転覆」にいて真実の情報を伝えようという努力と引き換えに、ただ侮辱を受けるために?ご覧の通り、私はプールの隣で快適な生活を送っていました。インド人は立ち入りできない場所です。

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私はプロパガンダのエキスパートとして高給をもらっていました。家族もありました。国からは尊敬されていました。キャリアには一点の曇りもありませんでした。それに、家族を連れてどうやって離脱しますか?

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妻と赤子を連れて亡命しようとするのは自殺行為です。先程話した偽善的なインドの法律に従って、インド警察は私たちをKGBに引き渡すでしょう。それが離脱の末路となり、おそらく命も失うことになるでしょう。そして、妻を連れて行くことも無理です。妻は私が何をしていたかよく知らないのです。彼女はイデオロギー的なことや、ましてや私がKGBで行っていたことの全体像など把握していませんでした。突然彼女を貨物車に押し込んでアメリカ大使館などに乗りつけたら、ショックを受けてしまうでしょう。大変危険です。そういうわけで、私の離脱は単純に姿を消したように見せかける必要がありました。そのようにソ連の諜報員が姿を消すケースはたくさんあったからです。戦闘で殺されたり、急進派と密接に接触することによって・・・中にはマルクス主義者に殺されることもあるんですよ。それはアフリカでよく起きていました。ソ連のKGBがアフリカ人に殺されていたのです。マルクス・レーニン主義者への憎しみからではなく、単に彼らの好戦的で気ままな性格ゆえにです。マシンガンを彼らに与えると、すぐに撃ち出します。そして自己防衛の意識が足りなかった不注意なソビエト人は、恥ずかしいことに、彼らのいわゆる「人民解放運動」の派閥抗争の銃撃戦に巻き込まれて死んでいました。とにかく、私は前に話したように、カウンターカルチャー(反体制文化)を学ぼうと決めました。それが姿を消すのにベストな方法だろうという結論に達したのです。

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ユーリ・ベズメノフ:私はこの写真の左にいるような人々と付き合い出しました。ほら、裸足のアメリカ人ヒッピーです。彼らが何をしているかを正確に知って、どうやって彼らに溶け込むかを学ぶには、かなりの時間を要しました。しかし最終的にはそれを実行しました。ほとんどのインドの新聞社が私の写真を持ち歩き、2000ルピーの懸賞金のために私の居場所を探していましたが、彼らは見当違いの人を探していたのです。彼らはシャツにネクタイをした「若いソビエト人の外交官」を探していました。しかし私が離脱をした当時はこうなっていたのです。

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ユーリ・ベズメノフ:誰もまさか、ソビエトの外交官がヒッピーの群れに参加するほどクレイジーだとは思いませんでした。

G・エドワード・グリフィン:これがあなたですか(笑)。

ユーリ・ベズメノフ:そうです(笑)。ハシシを吸いながらインドを旅するのです。私はほとんどハリウッド映画の刑事モノのストーリーのような逃亡劇で、ボンベイ空港のKGBの目をかわし、飛行機に乗ってギリシャへ飛びました。そこでCIAの事情聴取を受けたのです。これでスライドは終わりです。

G・エドワード・グリフィン:とても興味深かったです。さて、あなたは何度が「イデオロギー転覆」という言葉を使っていましたね。アメリカ人には馴染みのない言葉です。ソビエトがこの言葉を使う時、それは何を意味するのでしょう?

ユーリ・ベズメノフ:「イデオロギー転覆」は合法的で、公然とした、オープンなプロセスです。皆さんは自分の目でそれを見ることができます。アメリカのメディアはただ自分たちの耳に詰まったバナナを抜いて、目を開くだけで良いのです。そうすれば見ることができます。そこには何の謎もありません。スパイ活動とは全く関係がありません。スパイによる情報収集という方がロマンチックに映るのはわかります。CMで香水を売るにはうってつけでしょう。だからハリウッドのプロデューサーはジェームズ・ボンドみたいな映画を作るのが大好きなのでしょう。しかし現実には、KGBの主な仕事は全く諜報の分野ではありません。私たち離脱者の見解では、スパイ活動に費やされているKGBの時間・資金・人的資源は15%に過ぎません。残りの85%は「イデオロギー転覆」とか「活動的手段(active measures)」とか「心理戦」と呼ばれる、時間のかかるプロセスに費やされています。それが基本的に意味するのは、「現実認識を変容させること」です。全てのアメリカ人の現実認識を、どれだけ豊富に情報があっても、誰も分別のある結論に達することができない程度にまで変容させ、自身や家族、所属するコミュニティや国家を防御できなくさせるのです。これは壮大な洗脳のプロセスで、とても時間をかけて進行します。そして基本的に4つの段階に分けられます。最初の段階は、国全体の「士気喪失(demoralization)」です。これには15~20年かかります。

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ユーリ・ベズメノフ:なぜそんなに年数を要するのか?なぜならそれが敵国の学生を教育するのに最低限必要な時間だからです。言い換えるなら、マルクス・レーニン主義のイデオロギーを、少なくとも3世代のアメリカ人学生の柔らかな頭に流し込みます。学生たちは異論を唱えることなく、アメリカ愛国主義の基本的な価値観との釣り合いを取ろうとせずに、それを吸収します。その結果、60年代に学校を卒業したり、中退したりした生半可な知識人たちが、現在のアメリカの権力の座についています。政府、市民サービス、商業、マスメディア、教育システム。皆さんは彼らと一蓮托生です。彼らを排除することはできません。彼らは思想汚染され、一定の刺激に対して一定のパターンの思考と反応を示すようにプログラムされています。彼らの考え方を変えることはできません。たとえ彼らに本物の情報を暴露しても、「白は白で黒は黒だ」と証明してやっても、彼らの基本的な認知と論理的行動を変えることはできないのです。言い換えるなら、こういった人々に施された「士気喪失」のプロセスは完成し、それを巻き戻すことは不可能です。だから彼らを社会から排除できないのです。そのためにはまた15~20年かけて、新たな世代を教育し、アメリカ人社会のために行動できる愛国的な常識人を生み出さなくてはなりません。

G・エドワード・グリフィン:ソビエトのイデオロギーに対して好意的でオープンになるようプログラムされた人々が社会に配置されているということですね。そしてこういった人々もまた皆殺しにされる対象なのですか?

ユーリ・ベズメノフ:ほとんどがそうです。それは単に、彼らが将来目にする現実、「美しく平等な社会」「社会正義の実行」の現実が彼らに与える心理的ショックは、彼らにとって報いとなり、彼らは大きな不満と挫折を抱えることでしょう。マルクス・レーニン主義の政治体制は、そのような人間を認めません。反体制派とひとくくりにするでしょう。そして現在のアメリカとは違って、未来のマルクス・レーニン主義のアメリカでは、反体制派に居場所はありません。ここアメリカにはダニエル・エルズバーグのような人気者やジェーン・フォンダのような大金持ちが反体制派として存在していて、ペンタゴンを批判していますね。将来こういった人々はゴキブリのように潰されるでしょう。彼らの「美しく崇高な平等思想」には誰も何の見返りも支払ってくれないでしょう。彼らはそれを理解していないので、大きなショックを受けることになります。アメリカにおける「士気喪失」のプロセスはすでに完了しています。過去25年の間に。実際、十分すぎるほどです。かつてのソ連の同志もこれ程までに成功するとは夢にも思っていなかったでしょう。そのほとんどはアメリカ人がアメリカ人に対して行ったのです。道徳観の欠如のおかげです。前に話したように、真実の情報の暴露はもはや意味を持ちません。「士気喪失」した人は本当の情報を評価することができなくなっているので、その人にとって事実は何の意味も持たないのです。たとえ私がそういった人に、文書や写真を示して、本物の証拠に裏付けられた情報のシャワーを浴びせても、力づくでソ連に連れて行って強制収容所を見せたとしても、その人は信じることを拒絶します。実際にその太った尻を蹴飛ばされることになるまではね。実際に自分が激しい痛みを感じてから、やっと理解するのです。それがこの「士気喪失」の状況の悲劇なのです。基本的にアメリカはその状態から身動きが取れなくなっています。たった今、この時にも新たな世代のアメリカ人の教育を始めない限りは。

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ユーリ・ベズメノフ:それでもまだイデオロギー的な現実認識の潮目を変えて、正常な愛国心を取り戻すには、15~20年かかるのです。第2の段階は「不安定化」です。この段階になると、転覆者は皆さんの考え方や消費パターンを気にしなくなります。ジャンクフードを食べて太っていようが、いまいが、関係なくなるのです。この国家の「不安定化」のプロセスには2~5年しかかかりません。大切なのは、経済、外交関係、防衛システムです。アメリカの国防と経済にとってセンシティブな領域へのマルクス・レーニン主義の影響には、目を見張るものがあります。私が14年前にこの自由世界にやって来た時には想像もできなかった程です。このプロセスはそれだけ速く進んでいます。そしてもちろん、第3段階は「危機」を起こすことです。その国を「危機」の瀬戸際に追いやるのに要する時間はたった6週間です。今中南米でそれが起きていますね。そして「危機」の後は、暴力的な権力構造と経済の変革があります。それが第4段階の「正常化」期です。これは無期限に続きます。「正常化」とはソビエトのプロパガンダから引用された、皮肉な表現です。1968年にソビエトの戦車がチェコスロバキアに侵攻した時(プラハの春)、ブレジネフは「今や兄弟国チェコスロバキアの状況は正常化された」と言ったのです。これがアメリカでも起きるでしょう。様々な卑劣漢が国を危機に追いやり、人々に「素晴らしい改革」「地上の楽園」を約束し、国の経済を不安定化させ、市場の自由競争の原理を排除し、ビッグブラザー政府をワシントンD.C.に樹立し、ウォルター・モンデールのような「情け深い」独裁者を大統領にしたらね。

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ユーリ・ベズメノフ:彼は多くの「良いこと」を公約に掲げていますが、その約束を果たすかどうかなど、決して気にはしていません。彼はモスクワに行って、ソビエトの新世代の暗殺者たちの尻にキスするでしょう。彼は気にもしませんよ。状況は制御下にあるという偽の幻想を作り出すでしょう。実際は、うんざりする程に手に置けない状況です。ほとんどのアメリカの政治家、メディア、教育システムは、次世代の若者を訓練して、彼らが平和な時代に生きていると思い込ませようとしています。虚構です。アメリカは戦争状態にあります。宣戦布告されない、この社会のシステムの基本原理と基礎に対しての全面戦争です。この戦争を開始したのは、もちろん、アンドロポフではありません。

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ユーリ・ベズメノフ:システムです。どんなに馬鹿げて聞こえても、それは世界共産主義システム、もしくは世界的な共産主義の陰謀です。怖くはないですか?これが怖くなかったら、その人はもう怖いもの知らずだと言えます。しかし偏執的になる必要はありません。今実際に起きていることは・・・皆さんには文字通り、あと数年の時間しか残されていないということです。アメリカが目覚めるまでに。時限爆弾は時を刻んでいます。毎分毎秒、災難は近づいています。私の場合とは違って、皆さんにはどこにも亡命する場所はありません。

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ユーリ・ベズメノフ:南極でペンギンと暮らしたくなければね。ここがその場所です。アメリカこそが自由と可能性を持つ最後の国なのです。

G・エドワード・グリフィン:オーケー。それでは私たちはどうすべきなのでしょう。何かお勧め頂けることはありますか?

ユーリ・ベズメノフ:すぐに思い浮かんだのは、まず第一に、真の愛国心というものについて、国を挙げて教育する努力が必要でしょう。社会主義者・共産主義者の本当の危険性について説明することです。福祉国家、ビッグブラザー政府というものの危険性についてです。

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ユーリ・ベズメノフ:人々がその差し迫った危険性を把握できなければ、もうアメリカを救えるものは何もなくなります。自由にお別れのキスをすることになるでしょう。そこには同性愛の自由も、囚人の自由も含まれます。全ての自由が5秒で蒸発して消えてしまうでしょう。皆さんの貴重な生命も。第二に、・・・少なくともアメリカのある一部の人々は本当の危険性に気がついているようですが、彼らは政府に働きかけなくてはなりません。手紙を書けとか、嘆願書に署名しろとか、そんな話ではありませんよ。そういった「美しく高尚な」活動ではありません。

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ユーリ・ベズメノフ:私が言っているのは、強制的に、アメリカ政府に共産主義への援助を止めさせることです。それほど火急の問題は他にないからです。今まさにソ連の軍産複合体が自由世界に残された全てのものを破壊し尽くそうとしているのですから。そしてこれは簡単に実行できることです。クレジットも、テクノロジーも、金も、政治・外交的承認も、馬鹿げた穀物取引も必要ありません。アメリカがソ連の人殺したちへの援助を止めれば、2700万人のソビエト国民は永遠に感謝し続けるでしょう。クレムリンに座っているこの人殺したちを、レーガン大統領はソビエト政府と呼んでいますが、彼らはまともな政策など一つも行っていません。だから結局のことろ、この2つが答えです。あまりに単純な解決策かもしれません。しかしそれが唯一の解決策なのです。自分で自分を教育する自分の周りで何が起きているのかを理解する。あなたは平時に生きているのではありません。戦時中を生きているのです。そしてあなた方が自己を救済するために残された貴重な時間は僅かです。若い世代の人々にとっても、あまり時間はありませんよ。情動に駆られたり、性的なマスターベーションや、「美しい」ディスコミュージックに興じている暇はないのです。すぐにそれらは消えてしまうでしょう。資本家やビジネスマンの人々にとってもそうです。自分の首を吊るためのロープを売っているようなものだと思います。もし彼らが利益を求める落ち着きのない欲望を抑えることができなければ、そしてソビエト共産主義という怪物との取引を続ければ、とてもすぐに首を吊ることになるでしょう。殺してくれと祈ることになるでしょう。(ソ連がアメリカを支配すれば)おそらく彼らはアラスカに送られて、奴隷産業の管理をさせられるでしょう。単純なことです。不快な話なのはわかりますみなさんはこんな話は聞きたくないでしょう。しかし私が離脱したのは、みなさんに馬鹿げた話をするためではありません。ジェームズ・ボンドみたいな話はゴミです。そういったスパイ活動はもはや必要のない時代なのです。私が話しているのはサバイバルについてです。この(自由な)システムが生きるか死ぬかの問題なのです。みなさんは私に何のメリットがあるのかと尋ねるかもしれません。私もまたサバイバルし、生き延びるために話しています。私は離脱して、みなさんと同じ船に乗ったのです。一緒に歌えば、美しい歌を響かせることができるでしょう。この惑星上には、もう他に亡命できる場所はないのです。

このインタビューが行われたのは1984年、ちょうどロナルド・レーガン大統領が2期目を迎えるための大統領選挙の年でした。レーガン大統領がディープステートの思い通りにならなかった大統領であることは、Qも繰り返し言及しています。

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トランプの2期目がかかった大統領選挙がある2020年の状況との酷似は偶然でしょうか?どうやら私たちは再び不思議なタイムループを経験しているようです。だからこそベズメノフ氏の警告は、ほとんど歳月の隔たりを感じさせることなく、2020年の日本に住む私たちの心にもダイレクトに響くのであり、かつてなく重要な意味を持っているのです。

ベズメノフ氏はこのインタビューの約10年後に、心臓発作で亡くなりました。ベズメノフ氏は今のアメリカや世界の状況をどう思うでしょうか?もし今もベズメノフ氏が生きていたら、間違いなくQムーブメントやトランプ大統領やプーチン大統領を支持していたことでしょう。「あと少しだ。頑張れ!」と言ったのではないでしょうか。




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