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いつも、マスカラを二度塗り

彼に会うときは、いつも、マスカラを二度塗りしている。
正確には、二種類のマスカラを順番に重ね塗りしている。
ビューラーできっちりと根元を立ち上げ、指で毛の流れを整える。カールキープタイプのマスカラを薄く、根元からジグザグとのせる。束感を調整したのち、ブラウンの繊維がたっぷり入ったマスカラを上から重ねる。コームで整えて完成。

こんなに面倒だけど、私が二度塗りをしなくても、彼は違和感なんて抱かないだろう。
いつもよりまつ毛が短くても、束感がなくても、茶色くなくても、彼は気付かないだろう。
女性の友人ですら、些細なマスカラの重ね具合なんて気付かないかもしれない。
それでも、私はまつ毛を長く、太く、茶色くしたいと思う。
自己満足の4文字では片付かない、意地なのだ。

ただ、まつ毛にコンプレックスがある訳ではない。特段短くもない。
すっぴんは、彼に何度も見せている。なんなら頬をよせて、微笑み合って、吐息を共有しているあのときに、作り物のまつ毛なんてポソポソとシーツの上に落ちている。

一方、彼のまつ毛は長い。下まつ毛も長い。そして太い。黒々と彼の瞳を縁取っている。全体的にはすっきりとした顔立ちなのに、そのまつ毛のために、どこか子供のような印象を与える。彼に初めて会ったとき、横に座る彼の顔を眺め、そのまつ毛の長さに感嘆しながら日本酒を流し込んだ。

そんな素晴らしいまつ毛の持ち主に、怒りを抱くことがある。
いい加減、学生を卒業するというのに、一度引っ掛かってしまうと、自己の内在で消化することができなくなる。となれば、やはり彼にボールを投げるしかない。

いつもは5コ年上の彼に、赤子のようにぎゃあぎゃあと甘えているくせに、怒りをぶつけるときだけは、世間の「毅然とした振る舞い」のようなものを真似たくなる。実際の怒りの中身は、くだらない期待の反動だとか、自分のペースを崩される恐怖だとか、子供じみたものだ。先日は、ホワイトデーを忘れられていじけた。文字にすると、なんて幼いのだろう。
幼稚なコアを偽装するために、正当性があって、論理的で、かつトーンポリシングの隙を与えないように冷静に振る舞う。
まあ、どうせ見破られているのだけどね。大人には。

大人で、自分の機嫌をコントロールできる彼。
大概の駄々は、困った顔をして叶えてくれる彼。
自分の世界を、生活を生きる彼。

彼は立派で、えらくて、素敵で、私はずっと敗北している。勝ち負けにこだわるなんて子供だ。でも、事実子供だから、別に何と言われようと構わない。
ただ、怒りを伝達するときだけは同じ大人として、土俵に立たねばならない。沸々としているマグマの幼稚性なんて関係ない。マグマの存在が知られることもなく、冷えて固まってしまったら、この試合はジ・エンドなのだから。ジ・エンドはいやだ。それだけはいやだ。
そこで、どうにか同じ土俵に立つための、大人の武装方法が、マスカラの二度塗りの積み重ねなのだ。
面倒くさい。大きな変化はない。でも少しの手間を惜しまない労力は、私に自信をくれる。まつ毛がいつもきちんと長いのだから、武装する労を惜しんでないから、大丈夫だと。瞬きしたときの重量感は、おまじないだ。

いつか小賢しい武装を解除する日が来るだろうか。
もっと会いたい、もっと触れたいと望んだとき、「頑張るね笑」なんて返されても傷つかなくなったら。
ホワイトデーを忘れられても何とも思わなくなったら。
敗北感も劣等感も取り払って、何にも寄りかからないで、自立できるようになったら。

やっぱり嫌かな。
大人になる引換券が、柔らかい気持ちだとするなら、このままでいたいかもしれない。
愚鈍になるくらいなら、まつ毛を今日も伸ばし続けよう。


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