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その名はカフカ Inverze 2

その名はカフカ Inverze 1


2015年1月キシナウ

 オレグが「お前、キシナウの出身だったよな?」とボスに話しかけられたのは一週間ほど前のことだった。こんな大きな集団の中で、しかも最年少の下っ端の自分の出身をボスが覚えていてくれたことは嬉しかったが、そうやってわざわざ声をかけるということはキシナウで何かやらせたいことがあるのだろう、と不安にもなった。
 オレグが生まれ故郷であるモルドヴァの首都キシナウを出たのは十八歳にも満たない頃だった。学校の勉強にはとうに付いて行けなくなっており、高校をほとんど追い出されるように中退したが、両親は五人兄弟の末っ子のオレグの将来に関心はないようだった。学校を出たその足でほとんど徒歩で国境を越え、モルドヴァとの国境近くにあるルーマニアの小都市ガラツィの郊外に本拠地を置いている非合法武装集団に入れてもらった。
 別にキシナウに居られない理由があるわけでもなく、今も大手を振って歩ける街ではあるのだが、特に裏社会の人間に伝手があるわけでもない。自分が何の役に立てるというのだろう、と思ったが、ボスは「道案内ができればいいんだ。地元の人間によそ者じゃないと判断される奴が使いたいそうだ」と言った。
 ボスの口調からして自分に何か頼みたい人間はボスではないということなんだろうとは思ってはいたが、と心の中で独り言ち、オレグはルームミラーにちらりと目をやって、運転席の後ろに座っているティモフェイェフを盗み見た。
 車を運転しているのはやはり同じ武装集団のメンバーのモルドヴァ人だが、故郷を離れてもう十年は経つと言っていた。だから道案内には記憶が新鮮な自分が選ばれたということなのだろう、と思いながらオレグは今度はティモフェイェフの隣、自分の真後ろの座席の、右手のサイドミラーに僅かに姿が映っている人物に目をやった。その人物は今日ティモフェイェフが唯一連れてきた部下で、顔がほとんど正方形に見えるような形をしたがっしりとした体格の男だった。
 キシナウは夏は暑く、冬は寒さが厳しい街だ。この日も朝から冷え込んでおり、午後四時を回った今も気温は氷点下で雪が舞っていて、風も強い。オレグは「気が重いな、緊張するな」と思いながら恐る恐る
「あの、ここからは歩いたほうがいいと思うんで」
と言った。案内してほしいと言われた住所を目にした瞬間から、オレグは「見知らぬ車が入るのは歓迎されなさそうな場所だな」と思っていた。
 オレグの言葉に、まず運転していた同僚が車を路肩に寄せて止まった。ティモフェイェフはオレグのほうを見ると
「そうか、君がそう言うのなら、そうしよう」
と返して微笑んだ。運転席の同僚が
「俺は指示さえいただければどこにでも移動しますんで。取り敢えずここで待機してます」
と言うと、ティモフェイェフは頷いてから車のドアを開けた。彼の部下もほぼ同時に動き始めたが、オレグが気が付いた瞬間には既に車の外に立っていて、オレグは慌てて車の外に飛び出した。
 それからオレグはティモフェイェフのほうへ歩み寄りながら
「こちらです」
と目的地のほうへ促した。ティモフェイェフがオレグと歩調を合わせて歩き始めると同時にティモフェイェフの部下がすっと音もなく姿を消し、オレグはぎょっとした。視界の隅に映っていただけだからはっきりと消えた瞬間を見たわけではないが、「消えた」としか言いようのない立ち去り方だった。
 オレグが狼狽えているとティモフェイェフは
「あれが彼の護衛の仕方なんだ。さあ、行こうか」
と笑いながら言った。オレグは「今のショックで伝説の男と二人きりで歩く緊張も吹き飛んだ感じだ」と思いながら車道を横切り、一見何の変哲もない住宅街の路地に入った。ティモフェイェフは黙ってオレグの隣を歩いていたが、話してはいけない雰囲気でもなく、オレグは
「あの、護衛は一人で大丈夫なんですか」
と聞いた。
「俺は基本的に誰も連れていなくても大丈夫なんだ。そういう職種だったからね。今日はあの男にしか頼めない仕事があるから連れてきた」
「でも、あの部下の人、今どこにいるんですか?」
「俺たちと一緒にいるよ。見えないだけで」
 ティモフェイェフは笑顔で話しているが、冗談を言っているようにも見えない。オレグは気後れしながら
「凄いっすね、俺には絶対真似できない」
とつぶやいた。
「そんなことはない。全く同じことはできないかもしれないが、訓練次第では君だって現時点では想像もつかないようなことができるようになる。君は優秀な子だ」
「いや全然、優秀だなんてとんでもない」
 オレグは反射的にティモフェイェフの言葉を否定し、次の瞬間後悔した。伝説の男に抵抗したような形になって、居心地が悪くなった。しかしティモフェイェフは気分を害した様子も見せず
「君たちの頭を務めている男は人を見る目がある。彼に受け入れられたのだから、君は自分にもっと自信を持っていい」
と言った。
「でも俺、学校でも落ちこぼれで、高校も中退したし」
「学校の成績だけが人を優秀かどうか判断する基準じゃない。ただ、そうだね、君はまだ若いのだし、今から学校に入り直す、という可能性も考えてもいいと思う。単に前の学校が君に合わなかっただけの話かもしれないじゃないか。祖国に居づらいのならルーマニアで学校を選んでもいい。ルーマニアなら君の場合、言語の問題はない。それに君はとても良いロシア語を話すから、ロシア系の高校に入ってもいいんじゃないか。卒業試験だけはロシアに受験に行く必要が出てくるかもしれないが」
「あ、俺、父親がロシア人で母親がモルドヴァ人だから……そんな特別なことじゃないです、両方話せるの」
「そうでもないよ。両親の母語が異なっていてもどちらか片方しか使えなくなるケースがかなり多い」
 それからティモフェイェフは少し考えるような顔をして
「特に君は今のところ公的機関に目を付けられるような仕事をしたわけでもないし、俺たちの大きめの作戦にはまだ参加していない。学校のことを考えるなら、今がチャンスかもしれない」
と続けた。
 オレグは改めてティモフェイェフのほうを見た。真剣にオレグの将来を考えて話してくれているのかもしれないし、単に他に共通の話題がなくてオレグのことを話しているのかもしれない。顔を見ただけでは分からない。
 何にしても伝説の男のこの街への溶け込み方は尋常じゃないな、とオレグはティモフェイェフを見ながら思った。第三者が今の二人を見たら、本物の父子が散歩をしているように見えるかもしれない。
 二人は暫く黙って歩き、古びた共同住宅の背の低いビルが立ち並ぶ区域まで来た。
 オレグは「ここです」と言って歩を緩めることなくその共同住宅のうちの一つを指し示し、出入口のドアを押した。出入口に鍵はかかっておらず、二人は中に入ると肩や頭にかかった雪を軽く払い、上階への階段を上り始めた。エレベーターは設置されていないようだった。この住所の建物の何階のどの部屋が目的地なのかはオレグには知らされておらず、ティモフェイェフが先に立って進んだ。
 三階まで上がり、廊下を右手に曲がって一番奥のドアの前まで来て、ティモフェイェフは部屋番号を確かめるとポケットから数本の細い金属の棒のようなものを取り出して玄関の鍵を開錠し始めた。鍵はほんの数秒で開いた。オレグはその様子を呆気に取られて見ていたが、ティモフェイェフは何も言わずにオレグを横目で見て軽く笑った。これが俺の仕事だったんだ、とでも言っているかのような表情だ。
 それからティモフェイェフは玄関ドアの中へ入り、オレグがその後に続いても何も言わなかったが、奥の部屋へ進む前にオレグに向かって軽く人差し指を立てた。オレグは「ここからは付いて来るな、と言っているんだな」と感じ、立ち止まった。
 建物の外観からも想像できたが、内装もかなり古びていて黴っぽい気がする。こんなところに何の用があるのだろう、と思いながらオレグはティモフェイェフの消えた部屋のほうを見つめた。ティモフェイェフの背が見えなくなって数秒の間を置いて、
「よく、無事で……」
と何者かが声を詰まらせるように言うのが聞こえた。泣いているのかもしれない。その声にティモフェイェフが
「それはこっちの台詞だ」
と答えるのが聞こえると、オレグは状況を全く理解していないのにもかかわらず目に涙が浮かんだ。しかしそれとほぼ同時に目の前にティモフェイェフの部下が立ちはだかっているのに気が付き、オレグは腰を抜かしそうになった。
 人というのは何かに気を取られていると視界が歪んで目の前にあるものを認識できなくなるのかもしれない、そうでなければこの男が現れた瞬間に自分が気が付けなかったことの説明がつかない。そんな言葉が頭の中を駆け巡ると同時に早鐘のように打つ鼓動を全身で感じながら男の顔を見つめていると、男は顎をしゃくって玄関ドアのほうを示した。
 やはり付いて来てはいけない領域まで足を踏み入れてしまったのかもしれない、と思いながらオレグは後ずさりをしたが、玄関の外に出てしまう前に男は「そこでいい」とでも言うかのように頷いた。ティモフェイェフの邪魔さえしなければ大丈夫だということか、と思いながら男の目を見ると、男は
「まだ五時前だが、君はどう思う?夜まで待ってからここを出たほうがより安全だろうか」
と尋ねた。オレグは伝説の男の右腕に意見を求められたことに嬉しくなり、意気込んで
「逆に遅い時間のほうがこの辺はやばいと思います。このくらいの時間帯ならまだ入るところを誰かに見られてたとしてもそんなに警戒することはないかなと」
と答えてから、ふと気が付いたように
「あ、もしかして、人数増えるんですか?」
と聞いた。
 男は
「増えるのは俺が背負って行くから問題ない。サシャに急ぐように伝える」
と言うが早いか部屋の奥へ向かった。


 ティモフェイェフたち三人はガラツィ近郊へ帰るオレグと同僚よりも北のほうの国境からルーマニアに入るらしく、キシナウを出て五十キロメートルほど走ったところで迎えの車が来ていた。三人が車を降りると同時に見送りをしようとオレグも外に出た。
 オレグが車の外に立った瞬間には既にティモフェイェフの部下とキシナウから連れ出された人物は迎えの車の中に消えていたが、ティモフェイェフだけはオレグに近づいてくると
「世話になった。今日俺が君に話したことは、本気で考えておいてほしい」
と優しく微笑みながら言った。そしてオレグの返事を待たず、オレグの右の二の腕の辺りを軽く叩いて、迎えの車のほうへ向かった。
 オレグはティモフェイェフたちが乗った車が走り去った方角を、車が見えなくなっても呆然と見つめていた。
 しびれを切らした同僚に
「さっさと動けよ、そんなくそ寒いところによく立ってられるな。俺たちも行くぞ。変なのに目を付けられたらどうする」
と言われて、オレグはやっと車の中に戻った。


 スルデャンは助手席に座るサシャを後部座席から見つめながら
「あれは、秋に倉庫の見張りに座らされていた青年じゃないか」
と言った。
「君も覚えていたのか。さすがだ」
「サシャがあんな話をしたと言うことは物になりそうだということか?ちょっと判断に困る人材だな」
「それは彼のこれからの努力次第さ。まだ非合法な世界の底辺を這いつくばるだけの一生で終わる決意をするには若すぎる」
 視線を窓の外に移したスルデャンの表情をルームミラーで追いながらサシャは
「君の場合は、あの時点で手放してしまうにはあまりに惜しかった」
と言った。
「俺はあの時、まだ十五だった」
「君は既に信じ難いほどの才能を見せつけてくれた。俺に付いて来てくれて、感謝している」
 スルデャンは何も返さなかったが、ルームミラーの中でスルデャンが照れくさそうに小さく鼻を動かしたのが目に入り、サシャは楽し気に微笑んだ。


その名はカフカ Inverze 3 へ続く


『Kavčina chůze』 14,8 x 21 cm 鉛筆



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