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介護離職者が社会復帰できなくなる本当の理由〈介護幸福論 #36〉

「介護幸福論」第36回。日本では40代、50代の独身中高年にミッシングワーカーが増加しているとされ、社会問題化。NHKでも特番が組まれるほどである。まさしく介護で仕事を離れていた自分自身、社会復帰することの難しさを身をもって感じていた。

■母が気にかけていた息子の仕事のこと

 介護生活の間、母がずっと気にしていたのは、ぼくの仕事のことだった。

「あんた、わたしの面倒ばっかり見てたら、ちっとも仕事できないろうに」

 親の世話のために、息子が仕事を犠牲にしているのではないか。こんなに何年も東京を離れ、田舎で生活を続けていたら取り返しがつかなくなるのではないか。それが気がかりでならないようだった。

「大丈夫、大丈夫。適当に時間を見つけてやってるから」

 ぼくがそう答えると

「そうかねえ……」と、母は複雑な表情を浮かべる。病状が良化して自分が長生きすればするほど、息子の介護期間も長引くわけで、それをどう受け止めていいか、消化しきれていないようにも見えた。

「ミッシング・ワーカー」を知っているだろうか。日本語にすれば「消えた労働者」。

 身内の介護や、自身の健康上の理由などで長い期間、仕事から遠ざかり、働くことをあきらめてしまった人たちをこう呼ぶ。

 ミッシングワーカーは失業者とも違う。失業者は求職活動しているが、こちらは求職活動すらしていないため、失業者の統計に入らない。特に日本では40代、50代の独身中高年にミッシングワーカーが増加しているとされ、社会問題になっている。

 2018年にNHKスペシャルで特集された『ミッシングワーカー 働くことをあきらめて・・・』は、SNSでも大きな話題になった。

 57歳、無職独身の男性。親の介護のために40代なかばで仕事をやめ、10年が経つ。親が亡くなった後も、仕事を再開することができない。介護期間中に社会との接点が失われ、体力も気力もなくし、働くことをあきらめてしまった……。

 こんな例が次々に紹介されていく。ああ、ぼくとそっくりじゃないか。とても他人事とは思えない話ばかりだった。

 もっとも身につまされたのは、当事者たちの見た目。ストレートに言えば、しょぼくれた外見である。

 髪はボサボサ、衣服もさえない。何よりも目に光がない。残酷だったのは、彼らがまだ仕事をしていた頃の写真との対比だ。働いていた当時の顔写真は目に光があり、同じ人物とは思えないほど、ひと目で違う。

 何年もの間、介護に追われ、ろくに人と接することなく、社会と隔絶された環境に身を置いていると、人間は総じてこんなしょぼくれた外見になってしまうのか。

 ぼく自身も思い当たる節がある。介護生活を送る間は、外見など気にしないし、気にする余裕がないから鏡も見ない。

■「これが今のぼくの姿なのか……」

 親戚が見舞いに来て、母と一緒にみんなで写真を撮った。その写真を見せられて、ガク然とした。

「この端っこに写っている、白髪混じりのさえないおっさんは誰だ? そうか、これが今のぼくの姿なのか……」

 顔に締まりがなく、ほほのあたりが以前よりたるんでいる。いつのまにか白髪が増えたのも、自分で気付いていなかった。こんなに急に白くなるなんて、まるで『あしたのジョー』の矢吹丈と闘ったホセ・メンドーサになった気分だと、おっさん世代しかわからないネタをひとりつぶやく。

 久しぶりに鏡を見ると、歯まで黄色くなっていた。自分の歯を磨くより、親の入れ歯を洗うのが先だから、手入れがおろそかになってしまう。自分の口の中にポリデントを入れて洗浄したくなった。

 介護に追われていると、社会と隔絶される。この感覚はとてもよく理解できる。

 人との接触がないわけではない。病院へ行く。介護施設へ行く。訪問看護の人が来る。それでも、自分がいま暮らしている家-病院-介護施設という限られた生活環境は、一般社会の外にあるという感覚がふと襲ってくる。何ひとつ生産的な活動をせず、閉じた場所で毎日生きているという〝社会に参加していない感〟だ。

 しかし、その閉じた環境には、その中だけで通じる便利さや居心地の良さもある。

 誰もが病気や薬に詳しくて、誰もが介護用品や車いすを使えて、誰もが無職の介護人に理解がある。限定的にやさしい共同体。

 そのような特殊な環境で5年も10年も過ごしてしまうと、再び外の世界へ出るのがいかに苦痛で、しんどくて、どれほどハードルが高いか。

 動物園で暮らしていた若くないサルが、いきなり野生に放り出されても、もう餌の取り方を忘れてしまい、新しい群れに交じってコミュニケーションもできない。

 働くことをあきらめてしまったミッシングワーカーは、おそらくこれに近い。介護を終えた人がもう一度社会へ出て働けなくなるのは、再就職の口がないという理由より、この外の世界との壁のほうが大きいように思う。

 冒頭の続き。
 ぼくがいつものように、すりおろしたリンゴを食べさせてあげると、母はおいしそうにしながら、どさくさ紛れな言葉を口にした。
「わたしが死んだら、ちゃんと自分の仕事をしてちょうだいね」

 待て待て、おかあちゃん。それは言ったらダメだって。

*プロフィール
田端到(たばたいたる)。1962年、新潟県生まれ。大学を中退後、フリーライターに。競馬や野球を中心に著書は50冊以上。競馬の分野では「王様」の愛称で知られる。ほかにテレビドラマや映画のセリフ研究家、アスリートの名言コレクターの肩書きを持つ。両親の介護をするため、40代後半で帰郷。6年間の介護生活を送る。
ツイッターアカウント:https://twitter.com/4jkvvvypj6cdapf

※本連載は毎週木曜日に更新予定です

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