清く正しい一青年の日記8日目
個別の他者について僕はそのごくごく一面しか知り得ない。
誰のことであれ、それらの他者について、始終観察し続けてその他者のイメージを僕の中に作るというようにはいかない。
極めて断片的な交流によって、その他者についての何かしらのイメージを持つしかない。
そうして抱いているイメージというのは、正確なわけがない。他者のことを正確にイメージするというのは、原理的に不可能なことだ。
他者のイメージというのは、暫定的なイメージでしかあり得ない。
もう一度交流すれば別のイメージが加わり、それを繰り返していけば、始めて交流した時とは随分違うイメージまで達するだろうと思う。
プルーストの小説では、登場人物たちは、語り手に対して上で書いたようなものとして描かれていた。つまり、それぞれの登場人物の印象というのは、始めて登場した時から、最後に登場する時まで、ずっと変わり続けるようなものとして。
プルーストの方法は現実をより正確に写していると思うけれど、たいていのフィクションは、実はプルーストのようには書かれていない。
このことは考えてみるに値することだと思う。
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