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ジャック・ラカン 言葉遊びと一休宗純の狭間 増補改訂版

ラカンの言葉
可算であるということ、それはまさに「有限」という語の含意していることだ。」 

ラカンは可算(無限)概念と有限概念の違いを理解していなかった。

                
ラカンがラカンであり続けたとすれば、死ぬまでフランス語の言葉遊びを止められなかったからだ。それが彼の享楽であり症状(彼の言葉遊びを採用するならサントーム)である。

 

最も強度の神経症者であったラカンは、より上位のカテゴリーにおいては、最強度の「仏語を自己享楽的な症状とする(あくまでカッコつきだが)<精神病者>」であった。

勿論ここでのポイントは<最強度の>言説実践の中身(特異性=独位性のあり方)である。ここでのヒントはラカンとそのパリにおける派閥が担った「(超)地政学的な闘争」である。

 ラカン派精神分析という言説実践には<フランス(語)>あるいは<フランス(国体)>(同時に<フランス人>という身体的現実)の自己防衛あるいは自己享楽メカニズムの側面が濃厚である。

自己防衛的(神経症的)側面と自己享楽的(精神病的)側面とがまた内的に葛藤し「英語(米語)」と「仏語」をともに包括するより大きな複合体としての外部の内部すなわち「英語(米語)」と闘争を続ける。いわば祖国防衛闘争としてのレジスタンスであり、職業的哲学者になる前に英国対外諜報機関MI6の職員だったオースティンを源流の一つとする英米分析哲学と現代フランス思想の闘争がその典型的な表現型であるだろう。 この場合全体の枠組みは超地政学的なもの(まさに破綻に瀕したグローバル資本主義とそれを超える運動の複合体)である。


その冷笑的な見(せ)かけに反して(に相応しく)、あらゆるシステムに歯向かう情念の激しさにおいて、ラカンは突出していた。システムに抗う集団的な熱狂(五月革命)に対して放たれた彼の最大限皮肉な言葉が記録されている。唯一人ラカンだけが放ち得た言葉だ。その徹底さはある意味素晴らしい。

それは一休宗純を彷彿とさせる。ラカンには一休ほどの稀有な詩の才能はなかったのだが。


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