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2020年からは自分の表現方法にあったプラットフォームを選ぶ時代―わたしがnoteへ移行した理由

しばらくブログが書けない理由が、ブログのプラットフォームが持つ『表現を制限する雰囲気』であったことに、自分でも気づいていませんでした。それで数日前、noteへと移行したのです。

ブログ文化が定着してから10年以上経った今、読みやすい記事、読まれる記事のスタイル、書き方などは大体決まっていると思うのです。

そうなってくると見せ方の方が大切になってしまって、書きたいこと、使いたい言葉、さらには漢字の使い具合まで気にする始末となり、何か一定のフォーマットで書くという、そういう雰囲気に悩まされていました。

最近は文章読解力をあまり要さず、短時間で読める行間が広くて散文詩的なスタイルが好まれ、定着しています。それと相性が良ければいいのですが、それだとわたしの場合、収穫したお米を白米に精製する勢いで削いでいかないといけないので、大事なところまで削れてしまうというジレンマに陥っていました。

アメブロで同じ内容の記事を書きましたが、はっきり言ってこのスタイルは苦痛でしかありません。→ https://ameblo.jp/namoyoga/entry-12576955898.html

今躍進をしているプラットフォームはインスタ、YoutubeにSpotifyなど、動画、画像、オーディオ中心のものばかりで、「読む」という行為よりも断然簡単なものばかりです。簡単で速く手に入る方法ばかりが求められるので、良質な文章を書くことよりも『簡単に解ってもらえるように書く』ことのほうが大切になってしまっています。

インドの五大元素である空・風・火・水・土に例えるなら、色も音も無い文章の持つエレメントは空です。空であるからこそ無限の表現が、タダで最大限に生み出せるのが文章の力です。カメラなどの機材も一切いりません。

その自由度や可能性にも関わらず、フォーマットや理解されるかどうかに重きが置かれてしまうと、

『長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった』

では、意味不明だから全然ダメで読んでもらえない、ということになってしまうのです。これだと文化的に本末転倒です。

先週、色んなブログや記事をリサーチして、プラットフォームによってその雰囲気が違うことを知り、『読み物』としての表現を最大限に生かせるnoteに移動しました。もちろんシステムやユーザー数を考えるとまだまだ不便な面もありますし、個性の強いプラットフォームなので、そもそも表現力に自信がないとかえって使いづらいのではないかという懸念もあります。

ですが裏を返してみると、クオリティを重視するため、ガチのクリエイターには好都合です。販売ツールがついているのも、お金を払うくらいの価値のあるものを提供することが前提になっているからです。書き散らかしている散文スタイルはnoteでは好んで読まれないでしょう。

この10年はプラットフォームの基盤自体がユーザーと共に発展していった背景がありましたが、2020年からは自分の表現方法にあったプラットフォームを選ぶという、ユーザーの個性に合わせたプラットフォームの多様化が起こるのではないかと思っています。

noteは個性を保ちながら、ユーザー数をどんどん伸ばしているのは、個性に対する多様化へのムーブメントに応える形になっているからであって、noteが必ずしもすべての人にぴったりのプラットフォームに開発される必要性はないと思うのです。





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