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瞑想はなぜ気持ちをスッキリさせるのか?―ヴィパッサナーの本当の目的

翻訳をしていてつい疑問に思ったのが、日本語で瞑想という言葉はどういう意味なのだろうか、ということです。サンスクリット語やパーリー語源を探そうとすると、さまざまな表現がすべて『瞑想』になってしまいます。中国語の場合は冥想と表記されます。瞑または冥とは一体何なのでしょうか?

瞑想という言葉の意味

中国語源の『瞑』は目をつむる(瞑る)と直訳されていますが、漢字の意味は『目を冥る』を表しています。この『冥』という漢字は暗いという意味で使われますが、『奥深い、見えない』というニュアンスがあります。

見えない世界のことを『冥界』と言うように、『瞑』は目を『冥』へ向けること、見えてないものを見るという意味があります。『意図的に見えないものを見ること』が『瞑想』という言葉の意味にぴったりなのではないでしょうか。

そう考えた時に、この言葉に当たるサンスクリット語・パーリー語はヴィパッサナーです。(チベット語ではハットン。やはり『超越した目』という意味です。)

ヴィパッサナーのヴィは『真実を見る』という意味があります。ほかの言葉でいうと、ヴェーダの語源もこれと同じです。パッサナ―は実際に見えている状態を指します。普段の目の識は自動的に色々なものを外から感受し、わたしたちは日常、それを見ています。その日常的な『見る』よりも、普段は見えていない、もっと深い部分を見るのが瞑想です。

6つの識について

ここで『目の識』と表現したのは、仏教では眼耳鼻舌身意の6つの意識という考え方があるからです。アーユルヴェーダ理論やヨガ哲学が基礎としているサンキャ理論で言うところの5つのジュニャナ・インドリアスにマナスを足して6とします。実際に体の目が見ている活動だけが『目の識』ではないということを踏まえていなければなりません。

サンキャではこの状態はジュニャナ・インドリアスとカルマ・インドリアスとの2つに分けられています。前者が受信意識であり、後者は受信部位(体)です。

仏教哲学は意識の構造(アビダルマ)を理解してなんぼ!というところがありますので、この5つに顕在意識(末那識)を足して6識、大乗仏教の7識では、これに潜在意識(阿頼耶識)を足して7とします。(研究者の方々からすると、超大雑把な表現なので誤解が生じるように感じられたら、ごめんなさい!)

説明が長くなってしまいましたが、本題に戻りましょう。わたしたちの『目の識』を含めたは意識は、日常的に感じている粗い世界だけではなく、もっと微細に見えないものを見るポテンシャルを持っているということです。

瞑想はその顕微鏡(もしくは望遠鏡)のような目を培うためのものです。この顕微鏡のような目を持つことをプラティヤクシュと言います。世界を超高性能の電子顕微鏡でできた眼鏡をつけて見るような感じです。どんな感じがするのでしょう?物質は全部炭素に見えてしまうのでしょうか?

瞑想はなぜ目をつむるのか?

ではなぜ、ほとんどの瞑想法は目をつむるのでしょうか?

それはわたしたちの目は自動的に『見る』という受信活動をして、自動的に『それは何か』という概念が処理されてしまうからです。その速度は5Gどころではありません。わたしたちは一瞬にして膨大な情報量を処理する能力を持っています。だから『氣づかないうちに』色々な情報が入ってきて、色々な反応が繰り広げられてしまうのです。そこに『気づき』=マインドフルネスをもたらすのが、瞑想です。

その活動をスローダウンするために、まずは目をつむります。目をつむると見えるのは、暗闇=見えない世界です。静かにそこに意識を向けていくと、さまざまな反応(思考、感情、ヴィジョンなど)が繰り広げられている様子が、うかがえるようになってきます。静観・止観と言われるのはそのためです。識の活動は常に活発ですから、静かにしないと見えない、聞こえない。ゆっくりしないと見えない、聞こえない、のがわたしたちの普段の状態です。

反対に密教のような『目、開けたまま』の瞑想法は、一点に目を集中させることで目の識をはじめとする全識の活動がスローダウンして、微細な正体が見えてくるという高度なものです。

ヴィパッサナーの本当の目的

日本の仏教語では静観がサマタ、止観がヴィパッサナーと表現されてきました。最近テラヴァーダ仏教が『初期仏教』として人気を高めています(わたしはテラヴァーダを基礎に研究をしていますが、『初期』と認識するのは誤解だと思っています)。その影響もあって、パーリー語そのままの『ヴィパッサナー』という言葉が知られるようになってきました。

ですが、チベットでは『ハットン』というと前述したように、大乗の概念にもヴィパッサナーは存在しています。練習方法が違うだけで、禅の止観も意義的にはヴィパッサナーの内に入ります。

パーリー語経典のアングッタラ・ニカヤの4.140『ユガナダ・スッタ』の中でブッダの側近であったアナンダはこう言います。

『内観を深めるには人それぞれ、その人にあったやり方を見つけるといい。ある人は静観が止観につながり、またある人は止観が静観につながり、またある人は静観と止観が同時に深まり、またある人はダルマ(法)を熟考しているうちに静観と止観に入ってしまったという。

アラハン(羅漢=識に騙されることなく見る者)はみな、必ずこの4つのうちのひとつかふたつは実践して、自分に合った道をみつけてきたのです。』

このアナンダの表現はまるで大乗仏教の方法までをも包括して言及しているようなものです。大切なのはどの方法が正しいかではなく、『識に騙されない目』を培うという目的がはっきりしているということです。

瞑想はなぜ気持ちをスッキリさせるのか?

なぜ静かに座るだけで、心が穏やかになり、気持ちがスッキリするのでしょうか?それは自動的に茶番にさらされているわたしたちの識の活動がスローダウンするからです。そこには間が生まれ、ありのままを見る余裕が生まれます。

ですが『識に騙されず見る』ことを目的にせず瞑想を実践すると、瞑想とはとても抽象的なものになってしまいます。心が穏やかになる、気持ちがスッキリするという効果が目的になってしまい、なぜそうなのか分からないのはこのためです。

シャマタ(静観)=おだやかになる瞑想、ヴィパッサナー(止観)=思考を観察して止める瞑想だという考え方は早とちりです。『識に騙されない』という本来のブッダのメッセージを目的としたとき、アナンダの言葉のとおり、見えていなかった部分を見る『瞑想』という道が開かれていきます。

シャマタを通してヴィパッサナーが起こる、というのが大乗仏教の方法であり、反対にテラヴァーダの方法でヴィパッサナー瞑想を実践していても、実際にヴィパッサナーが起こるまではシャマタの効果=穏やかになり、気持ちがスッキリすることが起こるのは自然なことです。

『識に騙されない』という目的がはっきりしていれば、シャマタとヴィパッサナーが相互関係にあることがはっきりと見えてくると思います。

スッキリすることを目的にするのも良いですが、それではもったいないというのがわたしの正直な気持ちです。マインドフルネス、瞑想を実践している方は、今日一日でもいいので、自分が日ごろどれだけ識に騙されて、翻弄されているのかを考えてみてください。きっとスッキリがいつもより長く続くはずです。

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