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哲学対話と〈確認〉

考えるためには問い(質問)が必要だ。しかし、問い(質問)があれば必ず考えることができるのだろうか?

対偶を見てみよう。

 考えられる ならば 問いがある(命題)
 問いがない ならば 考えられない(対偶)

問いがなくても考えることができるならこの命題は偽になるが、一切の問いがないのだとしたら考えることはできないだろう。

では、逆と裏はどうだろうか。

 問いがある ならば 考えられる(逆)

問いがあれば必ず考えられるという命題だが、知識がないとか前提がわからないとかでも考えられないことはあるだろうし、他にも、考えている時間がないなどの理由も除外されてはいない。〈問いがあっても他の要因で考えられない〉ことは十分にあり得るので、この命題は偽になる。

 考えられない ならば 問いがない(裏)

すでに示したように、問い以外の要因で考えられない状況は生まれ得るため、考えられない理由は必ず問いがないからだと断ずることはできない。よってこの命題も偽になる。

さて、私がこの文章で主張したいことは次のことだ。

哲学対話会で哲学や対話を経験できるとは限らない

「なんだよ、問いとか考えるとかの話じゃないのかよ」と思われる方もいるかも知れないが、まあ先を読んでほしい。

さて、哲学対話は参加者みんなで考えることを楽しむイベントだ。しかし、そういうイベントだと銘打っただけで哲学的になるはずがない。また、対話しようと宣言することが対話を保証することになるはずもない。

単に「話す」「聞く」だけでは哲学として不十分であり、単に「問う」「考える」だけでは、哲学としてはもしかしたら成立するのかも知れないが、対話としては確実に不十分だ。

そして、「話す」「聞く」「問う」「考える」が揃ったところで、個人の妄想の言い合いや決めつけ、否定せんがための詰問に終始したとしたら、哲学としても対話としても十分とは言えそうもない。

では、哲学に必要な要素、対話に必要な要素はなんだろうか?
また、「それぞれに十分と言える要素」はなんだろうか?
哲学対話には「必要な要素」や「十分な要素」があるのだろうか?

必要な要素(必要条件)のいくつかはすぐに思いつきそうではある。しかしそれが十分かと言えば、そうと断言することは難しい。

哲学を実践するといった時、「考える」ことを抜きには語れないだろう。ではその「考える」こととは、「問う」ことで必ず満たされるのだろうか?

また、対話を実践するといった時、「話す」「聞く」を抜きには語れないだろう。ではその「話す」「聞く」こととは、質問し答えることで満たされるのだろうか?

「問い」や「問うこと」はたしかに、哲学にとっても対話にとっても必要条件だろうと思う。問わずに考えることはできないし、問わずに聞き流すことを対話と呼びにくい。しかし、「問い」や「問うこと」だけで哲学や対話ができたと言えるほど十分な要素だとも言えない。

たとえば対話において「他者の話を聞く」というのは必要条件だろう。他者の話に一切聞く耳を持たない対話はあり得ないはずだ。ではこの場合の「聞く」とはどういうことか。

他者が話している間じっとしていることのように思う人も、もしかしたらいるのかも知れない。しかし、それは他者の発言機会の邪魔をしないというだけで聞いていることにはならない。もちろん、意味を捉えずサウンドとして聞くことも指してはいない。

「他者の話を聞く」というのは、他者の主張なり吐露なりを聞き、その意図や感情を理解するためのプロセスを指している。そうであれば、聞き手が話し手の意図も感情もまったく理解できない時、「他者の話を聞く」というプロセスが成立しているとは言い難い。

「他者の話を聞く」ことが理解するためのプロセスだとすれば、他者の話を理解できた時にそのプロセスは完遂すると言えるだろう。もしまったく理解できないとしたら、プロセスを完遂するために必要なことは、話し手の意図や感情をどうにかして確認するほかない。

聞き手側が受け取った内容が、話し手の意図や感情と一致するかどうか。確認するまでもないことは省略しても問題ないとは思うが、確認してもいないのに「他者の話を聞いた」とは断言できないように思う。

・ テレパシーで他人の心を読み取れる。
・ 勘違いや決めつけや偏見は絶対にない。
・ 生まれてから一度もミスしたこともない。

そんな人なら断言もできるだろうが、普通の人間にはできないことだ。受け取った内容が話し手の意図や感情と一致するかどうかを確認することは、「他者の話を聞く」上で必要かつ十分な要素と言えるのではないだろうか。

確認をする時にはもちろん問いの形になるだろう。だからやっぱり問いではないかという反論があるかも知れないが、「問い」や「問うこと」の内に必ず確認が含まれるわけではない。確認することは、問いとは別のものとして考える必要がある要素だろうと思う。

では、哲学はどうだろうか。考えることが問いだけでは十分にできると言えないように、哲学もまた「問い」や「問うこと」だけでは哲学を実践したとは言えないだろう。哲学を哲学足らしめているものを考えてみれば、モノゴトの捉え方自体を見直す試みが必ず含まれるように思う。それが奏功するか否かに関わらず、既存の枠組みの欠点を指摘し、新たな枠組みを提案する思考活動がなければ、既存の枠組みから一歩も出ないことになる。それは「絶対の正解を判断できた」と安易に自認することに他ならない。

とはいえ、既存の枠組みとらわれずに好き勝手な枠組みを提案することが哲学の定義になってしまっては、どんな妄言も哲学と呼べることになってしまう。だからこれも必要条件のひとつに過ぎない。だとすれば、十分条件とはどういうものだろうか。

もしも具体的なことだけを対象にしたら、それを哲学と呼べるだろうか。また、もしも例外ばかりの穴だらけの理論だとしたら、それを哲学と呼べるだろうか。おそらくどちらも哲学とは呼ばれない。そうだとすれば抽象化することや普遍性を追求することは、哲学にとって必要な条件のひとつと言えるだろう。その抽象から様々な具体例を導いた時、そこに普遍性があることを検証することなくして哲学とは呼べまい。

検証すること、それは正しさを確認するということだ。そのためには実証と反証を繰り返す必要がある。これを別の言葉で表現すれば批判だ。つまり哲学とは、既存の枠組みを捉え直したり、新たな枠組みの仮説を作たり、抽象化と具体化を繰り返しながら普遍性を探したり、そして検証・批判すること(=正しさを確認しようとすること)と言えるだろう。

だから哲学にも対話にも「確認する」という要素が必要で、意識して確認するプロセスなくして哲学対話は成立しないように思う。

もちろん、確認するプロセスがあったとしても、それだけで「哲学対話として十分」とは言えないだろう。しかし、意識して確認するプロセスがまったくないとしたら、それを哲学対話とは言えないのではないかと思う。

だからといって、しゃちほこばったものにしてしまっては、〈自由な対話であるはずの哲学対話〉とはまた違うものになってしまう。適度というのはなんとも難しいものだと思う。

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