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『るろうに剣心』のモデル・河上彦斎の出身地 熊本城下町🏯新町散策日記 【惣構御門跡編】

こんにちは。前回に引き続き、熊本城下町・新町散策レポートです。今回は新町の外縁を歩き、東西南北の町堺にあった関所門跡を巡った時の風景を写真付きで紹介してきたいと思います。今は門や建物は残ってないのですが、門跡には案内板が立っており、昔の堀の痕跡や、石垣などが残っていました。往事を偲びつつ、ブラタモリ風に散策を楽しんできましたので是非、ご覧ください☺️

ます、新町がどのような町の作りだったのか簡単に説明しますと、加藤清正は1599年の熊本城築城と並行して、城下を土塁や堀で囲って守りを固めた「惣構」(そうがまえ)を築きました。新町地区は惣構の内側に位置し、五つの城門に囲まれた城内町で、武家屋敷と町人町が混在する全国でも珍しい町でした。そして五つの城門は、通行手形がないと出入りできないよう厳重に管理され、門前には有事の時に武士が集結する勢屯(せいだまり)とよばれる広場が設けられていました。

因みに、明治に入って城門は取り壊されています。西側の堀は九州鉄道施設に伴い埋め立てられ、現在はJRの高架橋が上を走っています。(北側の堀も今は埋め立てられています。)また、南側と東側の堀の役割を果たしていた坪井川には、江戸時代は城門に通じる2つの橋しかありませんでしたが、明治以降の交通の発達によって、いくつもの橋がかけられて現在に至っています。

散策ルート紹介

今回の散策地を番号で示した地図です↓(新町の至る所に設置してある城下町時代の地図プレートを拝借🙏現在地は関係ないため無視してください。)

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今回の散策ルートは、①船場橋(柳御門跡)から新町に入り、→②古城堀端公園→③新一丁目御門跡(札の辻)→④段山須戸口門跡→⑤高麗門跡→⑥新三丁目御門跡となります。(注:実際には何日かに分けて写真を撮りに行ったため、写真の天気や時刻が異なります。ご了承下さい。)では早速行ってみましょう!

まず、市役所のある熊本の中心エリアから、坪井川にかかる船場橋を渡って新町に入ります。🦐

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橋の上からは、遠く熊本城の天守閣が見えます✨
(画面中央。小さいですが😓)計算された配置

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船場橋を渡り切った新町側の麓に、船場柳御門跡の案内板があります。

①船場柳御門跡

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船場柳御門は熊本城下の南東、船場橋から山﨑町方面を監視する関所門で、朽木家が厳重に警戒していました。門の構造は跳ね上げ式で、番所が置かれ、門の前には勢屯という広場がありました。坪井川沿いには、後には「船場山」と呼ばれる小高い土居を築かれ、土居には柳が植えてあったことから、「柳の御門」と呼ばれていました。ここに貯木場や物資の荷揚場があり、船場・塩屋町として賑わっていました。

跳ね上げ式の門って、どんな風に開閉してたんでしょうか。さすがに昼間は開けっ放しだったんじゃないかと思いますが、防御のための土塁(土居)まであって、かなり厳重ですね。通行手形ないと通れないし、江戸時代の新町住民不便そう、、手形忘れて出かけたら最悪ですね😅

橋の道向かいの案内板↓

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みなさん、「あんたがたどこさ♪」で始まる肥後てまり唄ってご存知ですか?熊本人はみんな知ってて、子供のころは、「せんば山にはタヌキがおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、食ってさ♪」と唄いながらボールつきして遊んでましたが、その「せんば山」が今は無き、熊本城下防御の土塁の事とは最近まで知りませんでした。(しかしこの唄も可哀想な内容ですね😅童歌って何故か怖いもの多い。。)

もちろん、今は土塁はありません。船場柳御門跡の前は市電が通る広い交差点になっています。

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さて、次は船場柳御門跡と新一丁目御門跡の間にある、古城堀端公園に参ります。

②古城堀端公園

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スマホの写真で表現できないのが悲しいんですが、石垣がすごい迫力で迫って来る、いい公園なんです〜✨以前新町に住んでたことあるんですが、この公園、初めて来ました😳

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古城堀端公園の古城というのは、現在の熊本城が北にあるんですけど、その前身の、中世隈本城の事です。この石垣の上にあったんですね、古城である隈本城が。因みに中世隈本城の最後の城主は佐々成政です。佐々成政は肥後平定に失敗して失脚し、その後に加藤清正が領主となり、今の熊本城を北側の茶臼山に築きました。現在は古城の石垣の上には高校が建っています。公園には2つの案内板がありました。

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この一帯は「古城」と呼ばれ、現在の熊本城の前身となる中世「隈本城」がありました。この付近には古城の水堀があり、慶長4年(1599年)現在の茶臼山を中心とする近世「熊本城」が築かれると、その城域に取り込まれました。その後、堀は戦前に段山(熊本市中央区)を削った土や昭和28年(1953)の大水害で市街地に流れ込んだ土砂を処分するために埋められました。

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江戸時代、この付近は惣構の中にある新町の北東の一画で、武士の屋敷がありました。「古城堀端」の町名は古城の堀沿いにあったことから明治時代に名付けられ、西南戦争以後は、高級料亭が建ち並ぶ街として知られました。

私も以前この付近の有名料亭に連れて行ってもらった事あります!新町には老舗料亭がいくつかありましたが、五年前の熊本地震でお店をたたんだ料亭もあったと何かの記事で読みました😢公園の近くには、まだ地震で崩れた石垣の仮置き場がありました↓

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さて、そろそろ散策ルートを北上し、熊本城の登城口であった、新一丁目御門跡に向かいます👟

③新一丁目御門跡(札が辻)

新一丁目御門跡があった場所は、今は清爽園という庭園として整備されています。ここから法華坂を上がっていけば熊本城に行けます。

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庭園の中に、新一丁目御門跡の案内板と四つの歴史街道の起点を記念したモニュメントがあります

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この場所には、かつて熊本城の西の玄関口となる新一丁目門がありました。江戸時代の絵図には、土塁と石垣で囲まれた櫓門が描かれており、北東方向の法華坂に通じていました。門の外側には「勢屯」と呼ばれる広場があり、藩の法令を掲げる高札があったので「札の辻」と呼ばれ、豊前・豊後・日向・薩摩各街道の起点となっていました。

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時代劇でよく見る、お役人さんが御触書を掲示して、町人さん達が、なんだなんだと群がっている光景がここで繰り広げられていたんですかね😏

それでは、北西の守り、段山須戸口門跡に向かって歩きます🏃‍♀️清爽園を出てすぐ、西南の役激戦地跡のモニュメントがありましたのでご紹介します↓
新町は明治10年に起きた西南戦争の激戦地であり、町の多くを戦災で焼失しています。

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須戸口門へ続く新町の北縁の道は、今は広い市電の通る通りになっています。

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熊本の伝統工芸品、肥後象嵌のお店・光助さん。
ここから電車通りを外れて新町内部に入り、旧段山町にある須戸口門跡に向かいます。

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④段山須戸口門跡

ここの須戸口門跡の案内板、見つけにくかったんですよね〜😵2回目の探索でJR高架の下にやっと見つけました。

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段山須戸口門は熊本城下の西北を監視する関所門で段山丘陵が、西向きに四段構えである熊本城の最前の防衛線にあたる要衝であることから、段山の木下家が厳重に警戒していました。門の構造は跳ね上げ式で、番所が置かれ、門の前には兵士が集まる勢屯という広場がありました。

門跡から新町の外側を見た写真です。道のカーブ、昔のままの形状ですね✨あと、江戸時代の絵図で右側に伸びる堀の、2段回に少しカクってなっている箇所、写真中央左寄りの緑のバリケード(階段)があるところですよね!きっと💡堀は完全に埋め立てられてますけど。

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カーブを歩いて高架下をくぐり、新町の外側、島崎方面を眺めると遠くに金峰山が見えます⛰(曇ってますが💦)

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因みに、金峰山にある洞窟・霊巌洞は、晩年の5年間を熊本で過ごした宮本武蔵が、かの有名な兵法書「五輪書」を著した場所として有名です。宮本武蔵は初代藩主・細川忠利の招きで寛永17年(1640年)に肥後藩に食客として招かれ、熊本の地で流浪の人生を終えました。晩年の武蔵も金峰山からこの須戸口門を通って熊本城に登城していたのでしょうか。

それでは、昔は西側の堀が続いていたJR高架橋に沿って、西の守り・高麗門跡に向かいます。
あ、見てください!途中、高架の脇に昔の堀の痕跡を発見❗️❗️❗️これ絶対そうですよね😆

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そして、着きました♪
高架の下に高麗門跡の碑と案内板✨

⑤高麗門跡

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(前略)この場所は九州新幹線と鹿児島本線の連続立体交差事業に伴って発掘調査が行われ、高麗門・参道(御成道)跡が確認されました。(中略)加藤清正は築城と並行して、城下を土塁や堀で囲って守りを固めた「惣構」を築きました。新町地区は「惣構」の内側に位置し、高麗門は新三丁目門と同様に「惣構」の重要な場所に構築され、新町の出入口として機能しました。高麗門の南西には細川家の菩提寺である妙解寺が位置し、高麗門から妙解寺に向かって参道が伸びていました。

加藤清正は朝鮮出兵していますが、朝鮮の高麗門に準じて熊本城の通用門としてこの門を建てたと言われています。それから、細川さんの菩提寺・妙解寺跡、新町に住んでいた時行ったことあります!今は北岡自然公園として整備されていて、細川ガラシャさんのお墓もあるんですよね🌟

高麗門跡の碑のある高架下から、門の外側の横手方面を眺めると、西南戦争で薩軍が陣を置いた花岡山が見えます。

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薩摩軍は花岡山に砲台を設置し、熊本城を砲撃したらしいですが、熊本城まで届かなかったとか。(諸説あるようです)

そして、高麗門跡の高架脇にもありましたよ❗️昔の堀の後✨おまけにアスファルトの下に、古い石橋の跡みたいなのも見えますね💡絶対、江戸時代に堀に架かってた石橋の一部ですよ、これ。(勝手に断定😅)

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そして、高麗門跡から新町側を眺めると、昭和の雰囲気が残る新鳥町商店街に続いています。

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では、最後の目的地、新三丁目御門跡に向かいます。町中の商店街は通らず、あくまで堀のあった外縁を歩きます👟

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高架と旧高麗門裏町の間の道を暫く南下すると、南縁を流れる坪井川に突き当たります。それから左折して、新三丁目門跡まで歩きます。現在は坪井川にはたくさん橋が架かってますが、藩政時代は町の防御のため、南側の新三丁目御門前の木橋と、①の船場橋だけでした。

⑥新三丁目御門跡(明八橋)

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新三丁目御門は南北方面に棟を持つ櫓門で、薩摩・日向街道の要衝であり、熊本城の出入口でした。門の構造は城郭と同じ櫓門という造りで、番所と常夜燈が置かれていました。この門は暮れ六つ(午後6時頃)に閉ざされ、厳重に警戒されていました。(中略)なお、この眼鏡橋の工作者は有名な橋本勘吾郎で、架替えられた年である明治8(1875)年にちなんで、明八橋と改称されました。

門限6時か〜、なかなか厳しいですね💦私が江戸時代の新町住民だったら、取り敢えず門番さんと仲良くなっておこうとしますかね(笑)

今は横に新明八橋という車道が通ってまして、そこから明八橋を見た景色です↓

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展望所には江戸時代の明八橋周辺のレリーフ

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明八橋から見た坪井川の風景✨

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昔はたくさん船着場があったんでしょうね🚤
橋の反対側の麓には、金魚ちゃんいました❣️
可愛い〜、癒される〜🤗

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因みに新町から橋を渡った先は、古町という、これまた素敵な建物文化財がたくさん残る旧城下町です。機会があれば古町も散策してnoteにUPしたいです。

まとめ

今回も長文になってしまいましたが、散策にお付き合い頂きありがとうございました!熊本城と城下町を築いた加藤清正は、城と城下の防御をかなり厳重にしていますが、仮想敵国は南の雄藩・薩摩でした。清正は守りが堅いことを見せつけ、抑止力とするために、薩摩街道を新町と熊本城の敷地内に通して、参勤交代時に薩摩藩士が通るようにしたのですが、果たして270年下った西郷隆盛の時代に、熊本城は薩摩軍に攻められる事になりました。(西南戦争)やはり熊本城の守りは堅く、攻め落とせなかったのですが、西郷さんが、「官軍[政府軍]に負けたのではない、加藤清正公に負けたのだ」と話したことは有名です。その際、城下町新町も焼け野原になってしまったのですが、その後の明治・大正期の繁栄の歴史を見ると、人って本当に逞しいな、愛しいなって思います。

新町の町中を散策し、『るろうに剣心』のモデル・川上彦斎の顕彰碑や、明治大正期の建物文化財を散策した前回の記事はこちらです。長文ですが、宜しければご覧いただけると嬉しいです↓

最後に、城下町の貴重な文化財を大事に守り、分かりやすい案内板を各所に設置してくださった地元の方々と自治体の方々に心より感謝申し上げます。お陰様で、今回も素敵な歴史散策ができましたm(_ _)m

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最後までお読み頂き、ありがとうございました😊

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