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利己と利他

日本では一般的に「利己」よりも「利他」で生きる事が尊ばれている印象です。

時にどちらを大事にするかで意見の対立が生まれる事もあると思います。そして、よく分からない人は何となく「利他」に収まっておくのが得策という「空気」に絡め取られがちだと感じています。

私は、利己と利他は対概念なのかどうか、という問題からよく考えることが大事だと思っています。そもそも何のために「利己」と「利他」を分けるのかということを考えなければいけないと思っています。そして、その視点の違いを理解し、社会善に活用することが大切ではないかという立場をとっています。

一番シンプルな定義は、下記の通りです。

利己 自己の利益を重視し、他者の善行を軽視、無視する考え方。

利他 自己の利益よりも、他者の利益を優先する考え方。

Wikipediaより抜粋

確かに真っ向反対に見えますし、納得感があるのではないでしょうか。

しかし、対概念をそのまま意見の対立に持ち込むのは浅はかではないかと思います。議論の本質が何かを見失ってはいけません。

意見対立がある時に、常々考えるべきは次元のズレが無いかということです。すなわち、議論の前提として、「目的と手段」、または「在り方とやり方」という根本的なズレがないか確認する必要があります。

「在り方」のズレはもっぱら相容れず、そのまま意見対立になると思いますが、「やり方」であれば対立回避は可能です。「在り方」についても上位目的をセットすることで短期、長期的に歩み寄りを導き出すことは可能です。

これはアナロジーとしてよく使われる車の「アクセル、ブレーキ問題」を考えると良いでしょう。つまり、「車の在り方」を肯定するならば、アクセル、ブレーキは「どっちか」ではなく「どっちも」必要であり、「使いよう」だと言う事が分かります。

利己と利他については、「自己、自我」の考え方も大事だと思います。

「利他」の原点となる仏教では、「自我」は単独で存在することはなく、「『自我ではないそれら』を含まないもの」として規定されます。これは因果律が支配するこの世で、あらゆる物の動きが巡り巡って、あらゆる物に影響を与えていく関係にあるためです。

「自分」と「他者」の境界線が極めてぼんやりとした世界観を想像してみると良いでしょう。さて、その世界で「利己的」に振る舞うことはどういう意味を持つでしょうか。

利己の定義、「自己の利益を重視し、他者の善行を軽視、無視する考え方」は果たして長い時間軸で可能でしょうか?
また利他の定義「自己の利益よりも、他者の利益を優先する考え方」も持続可能でしょうか?
これは「自分」と「仲間を含む自分たち」の範囲をどのように認識するかに左右されると思います。

もう一つの視点は「自己」の分離性です。昨日の自分と今日の自分は同じか。今日の自分にも様々な自分を感じることが出来るか。どの自分が「自己」か。

利己的に振る舞うことで獲得出来る競争力、利他的に振る舞うことで獲得できる協調力、これらはアクセルであり、ブレーキであり、その上位の「在り方」をセットすることで調和可能な考え方だと思います。

このように「在り方」に対する立場をとることで意見対立は生みますが、それは本質的な内容であれば仕方がない部分ではあると思います。

全体として建設的に議論がされ、より多様性を包含した統合的な意見が導き出されることが理想です。理想通りに進まないのは世の常ですが、不毛な水掛け論は極力避けたいですね。

この「在り方」については別機会に書こうと思います。

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