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【一日一言】新渡戸流「負けるが勝ち」後編(草稿)

●はじめに

この記事の後編です。↓

当記事では、「勝負事」ということで主に「競い合う場面」を想定して述べさせて頂きました。
生命や尊厳を伴うような「闘争」となると、視点や論点が大きく異なると思われますので、今回そのような考察は差し控えさせて頂きます。

●「負け」にどう向き合うか考えてみました

「負け」というものに対してどう捉えていくか、簡潔に述べてみます。

1 負けることを怖がって積極性を欠いていては前に進めない

誰もかれも押しのけて勝てばいいというものでもないと思いますが、「負け」を恐れて何もしない、最初から諦めてしまうのはみすみすチャンスを棒に振ることになりかねません。

「誰かを蹴落とす」というのではなく「切磋琢磨する」という意味合いで「勝負の場に挑む」ことは、自分自身もその相手も成長することにつながると思うのです。

2 負けて得られるものもある

競い合う場面において「勝利」を目指して研鑽するのは人生において必要な事かと存じます。
「絶対に負けてなるものか」と肚をくくることも大事だと思います。

ですが、一所懸命に向き合ってそれでも「負けた」という経験が自らの成長を促すこともございます。

自分自身を振り返る、いい機会でもあると思うのです。
また「負けた」経験が「謙虚さ」を学ぶことにもなりうるので、その謙虚さは「共感する力」にもなりますし、人間関係においてプラスに働くこともあるかと存じます。 

3 いっそ悔しがってもいいんじゃないか

「負けて悔しい」と思うのは、それだけ「一所懸命に取り組んだ」証ともいえます。
いわゆる「負け癖」がつくのは、それはそれで避けたい所です。

「悔しさをバネに」ということもございます。
「勝負の世界」においては「負けず嫌い」な気質を持つ方が、大きな「勝利」を手にしている現実もあるように見受けられます。

ただ、「悔しい」と思うのは仕方がないこととしても、その結果を受け入れることをせず、暴れてみたり負け惜しみを吐いて「勝負の場」そのものを汚す行為は結局「自らを汚す」行為かと存じます。

新渡戸氏はこのことを伝えたかったのかなとも思います。

●「勝った負けた」という話でしょうか?

何も新渡戸氏の言に物申したいわけではございませんが、そもそも「勝った負けた」というのは何なのでしょうか?

競い合う場を否定するわけではありません。
勝負において「勝ち負け」がある事も当然です。

それは「単なる結果である」と言ってしまえばそれまでの話です。
競い合いその結果がどうであれ、競う目的は「高め合うこと」ではないでしょうか?

自然界においては生物間の闘争での負けは「生命のおわり」を指すこともございます。
そこまで極端でなくとも、「負け」て失うものは大きいこともございます。

ですが、それにこだわるあまり「潰し合い」に終始してしまっては元も子もないと思うのです。

●最後に

勝ち続ければ責任(プレッシャー)を背負う事もございます。
負け続ければ(無力感に苛まれ)その人生が色あせていきます。

それに「勝負事」は一生に一度きりというわけでもありません。
果たして、ひとつの勝負事でその人の「価値すべて」が決定する程、人生というものはシンプルなものなのでしょうか?

人を測る物差しはひとつだけではないと考えております。

競う事は是で、勝ちを目指し研鑽する事も人生において尊いことかと存じます。
ですが、人生において「負ける事」だってありえます。

その時それ以降の「在り方」に、その人の価値が反映されると思われます。

ありきたりな言葉で恐縮ですが、結局「自分に打ち克つこと」すなわち克己心が勝負事においても「尊い在り方だ」ということで結びとさせていただきます。


そんな在り方であれば「韓信を感心」させることもできるのではと思います(誰も感心するぞ韓信、ちょっと気に入ってます)。
私のそれは何にも「うまくない」ですね。失礼いたしました。

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