見出し画像

ホン雑記 Vol.190「けしからんは小物の露呈」

オレは「けしからん」って言葉がまぁとにかく嫌い。

で、自分の中を覗いてみると、まぁ結構そんな分子がある。
しかも自分の「けしからん」は、よそのそれと違って、世の中の問題のい~ぃ感じのところに警鐘を鳴らしていて、一緒にしてほしくはないのである… と思っているふしさえある。実にけしからんなこれは。

んで、悲しいことに世の中のけしからんには、一様にこんな思いが通底しているんだろうなぁ。わががわがが、なのである。
そしてこうやって文字にしてみると、ホントにダサいことをしているなぁと心から思う。


オレもけしからんとこがたんまりあるし、世の正道から外れた者をそんなに嫌いなほうではないんで、けしからんと思うことは減ってきた。

だけどなぁ、ずーっと残ってるけしからんがあってね~。
それが「子供に読み不明な名前を付ける」ってことなんだけどね。こういう親がいつまで経ってもなかなか許せない。
理由はふたつあって、ひとつはそれを説明しだすとオレの悪魔みたいなところがきっと出てくるんで言及を避けるんだけど、もうひとつはやっぱり想像力の欠如なんだよなぁ。
どれだけ子供が人生でフラストレーションと、不当な扱いを経験していくと思ってるのだろうか。いやいや、考えて分からんもんだろうか。あかん、イライラしてきたぞこれ。

面接なんかでも不利にしか働かない。親が入社式に来たり、気に入らないことがあると怒鳴り込んでくるようなご時世で、そんなイビツな名前を付ける親の子など採りたくもない。
こんな話がどっかで上がってて「読みにくい名前でもちゃんとした人はいます」とか言うのがいたんだけど、そんなことは分かっとるがな。なんでそんな話にすり替わるのだ。不利だという話をしとるのだ。


「坊主憎けりゃ~」って言うように、悪いけど関わり合いになりたくないし、そんな難読名のヤツに出会った日にゃ死んでも名字でしか呼んでやらんし、お前の親がどれだけアホなのか教え込みたい… なんて思う。

が、そんな思想を昨日あたりで手放そうとふと思った。やっと思った。
自分が設定するけしからんに焦点を当て続け、それを超えるけしからんを自分の中に居座らせてどうするのだ。この発想こそが、大人数がネットを通じて言葉だけで人を殺めることの始まりではないのか。人に警鐘を鳴らしている場合か。

オレの「けしからん」の中身はきっと、情けなさや怒りや侮蔑にコーティングされながらも、奥の奥は慈悲で出来ているのだと思っている。
名付けられた子が、将来に渡っていちいち自分の名を人に告げ、「なんで自分の両親はこんな名前を付けたんだろう」という思いが常に渦巻いて、怒りと悲しみに囚われる未来が想像できるからだ。

だが、まだ起こってもいない苦労に、しかも人の痛みにたいして、勝手にいまの自分、しかも部外者の自分がけしからんと思う…。そんな発想が、未来のその子を救うのだろうか? こんなことをわりと考えて生きてきたつもりだったけど、まったくそこに至らなかった。
小人プロレスが衰退したのは「低身長の者で笑いを取るな」という、見せかけのヒューマニズムの声のせいだという。オレの思想も似たようなもんじゃないか。結局当人を不幸にするのは誰なのか? まったく考えてもいなかった。
思うべきは、ちょっと人よりユニークな名前を付けられた子を、どうやってスマートに言いくるめるのか、それだけでいいんじゃないか。
「なんだそんなことか」とモヤをはらったり、自分の名を誇りに思えるような言葉を探すことではないのか。かりそめの言葉でも。



けしからんは、怪しからんと書く。
「ん」は否定の意味だが「怪しくない」ではなく、「怪しいなんてもんじゃない」という意味合いで強調になる。加えて「憤慨しているという心境を表現する」意味もある。
つまり、けしからんの正体は「怪しくて怪しくてしょうがないものが出てきたから動揺させられてビビってます」と言える。叱るではなく、怒りを相手に伝えないと気が済まないのは弱さでしかない。


けしからんが増えたのは、許せないと思う狭量なヤツが増えただけのこと。
死ぬまで怒られよう。笑われよう。




サポート大歓迎です! そりゃそうか!😆 頂いた暁には、自分の音楽か『しもぶくりん』への「やる気スポンサー」としてなるべく(なるべく?)覚えておきます✋ 具体的には嫁のさらなるぜい肉に変わります。