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ホン雑記 Vol.579「あ、やっぱオレもガチャは思ってるわ。当たりばっかりだなーってとこだけ違うけどな」

糸井氏が言ってた「自分では語彙が多いとは思わない。少ないと思うわけでもない。そもそも、語彙を多い少ないで考えたことがない」が脳内を渦巻いてる。

渦巻き続けるワケの半分は「まさにその通り!」だと納得してるからだし、もう半分は多い少ないで考えていたからだ。かりそめにも言葉を扱って生きていきたいと思ったことのあった身ならではで(いつ辞めたのさ)、知らない言葉を見かけたら必ず調べた。
調べる時の半分は「おっ、初めて見る言葉だ」ってウキウキだったし、もう半分は「またいちいち調べなきゃなんねー」ってイライラだった。なので、半分ほどは言葉が嫌いってのもある。
調べたのを忘れて同じ言葉を二度調べる時なんかにはもう不幸にすらなってる。好きで調べたり書いたりしてたはずなのに「なんでオレはこんなにアホなんだ。やる気がないのか。向いてないのか」とまで思う。

語彙というものについて糸井氏は「1000色のクレヨンを手にすることと絵の上手さはあまり関係がない」と見事に言語化してくれたけど、オレもまさにそれに陥ってきた。
思うに色数を気にする心って、確実に世間を気にしてる。文学とか音楽の中に特に多い(気がする)「え、あの作品をまだ読んで(聴いて)いらっしゃらない? これはなんともゆっくりしてらっしゃる」と言いたい評論好きのことを気にしてそうなってる気がする。
もちろん本来気にする必要なんかない。たとえば映画評論家は映画監督とはかなりニュアンスの違う人がだいたいなってる。そこでもう答え出てる。

だけどまぁね、オレの中の人間の部分が気にするんだよね。まだね。ホントは服も婚姻もなければいいと思ってるんだけどね。だから無いように生きてるんだけどね。


そもそもは中3がはじまりだったのかもしれない。
まるで勉強が好きじゃなかったオレのメインの教科書はブルーハーツだった。「あぁ、これは間違いないわ」と思った。
で、そう思うわけなので、なおさら勉強と相性が良くない。正確には「勉強という形ですごいと思ってない人から無理矢理教えられる」というのが嫌いだったんだろう。今思えば、別にトガってない誰でもそうだわな。楽しくはないわさ。

なんの拍子に知ったんだろう。オレが中3ではじめて買った詩集が谷川俊太郎の文庫のコレクション『愛のパンセ』だ。その中にはブルーハーツと同じような世界が広がっていた。イキりたい盛りのオレは「へー、詩人にもこんな人がいるんだ」と思った。

今でこそ、ロックと詩人なんて同じような変人だとわかるんだけど、当時はロックは反抗的なもの、詩は先生が喜びそうなもの、って感じで真逆だった(とオレが勝手に思ってた)んで、そりゃまぁ「へー」ともなるわな。

『愛のパンセ』は、おもちゃ箱みたいだった。
マジックで赤い薔薇と共に「THE BLUE HEARTS」と書かれた、ぺっちゃんこに潰された白い学生カバンの中に忍ばせていた。いや、忍ばせてたはウソだ。同じくアホな友達に「愛のパンパンセックスや~。わははは~」と言われた記憶だけあるんで、どうせ見せびらかしたんだろう。

文字しか書かれてないのに、おもちゃ箱のようだと勉強のできない少年に思わせるのってすごいと思う。すごいと思うって、まぁ語彙のないこと。
一人称を変えた自分と話してみたり、青春真っ盛りな感じの超短編小説があったり、自分はとにかくベートーベンがこれほどに好きというのを語ってたり。なんていうの、文章の形式が違うってのかな。文字の並び方も違うし、物言いもいろいろ違ってて、ちょっと大袈裟に言うなら色がついてるように見えた。そんな本初めてだったんだよね。
国語で習った童話のいくつかも、色がついてるような感覚があるけど、それは実際に教科書に描かれた絵の色だとも思うしね。

そんなこともあってか「国語」ってもの自体に一目置くようになって、高3の時のテストでは国語だけ学年1位になった(言うてもだいぶアホ高だけど)。これがオレの人生で最大の自慢。これを超える自慢話を作ろうと必死こいてる。
うーん、やっぱそうでもない。


はっ!
ここまで書いて、糸井氏の話を持ち出したそもそもの理由とまったく違うことをしゃべってることに気づいた。こんなことあるんだ、人間って。こわ。

もう2000文字に届きそうなんで適当になっちゃうけど、語彙のことで思いついたホントに言いたかったことは「そもそも人生を良い人生悪い人生で考えるのも集団幻想じゃね?」ってこと。サラッと書いちゃったけど超いいこと言ってる。たぶん。

なんか、良い悪いなんていうそんな些末なものじゃないんじゃね? 人生ってさ。
所詮人間が考えた、しかも時代や国にほとんどの影響を受ける、これが自分だと思っている、確かだと思っている考えは、肉体全体から見たらなんとも微塵な一部分なんだよ。人間が思ってるこの「良い悪い」って。自分では大層な悩み・問題・取り組み事だと思ってるけどな。
良い悪いで考えるから「親ガチャ」なんて言葉も出て来る。国ガチャなんて言葉もそのうち出て来るだろう…って思ったらもうある。

大根の葉っぱが薔薇の花をうらやむかね。うらやまんだろう。しらんけど。でもきっとガチャ失敗なんて思ってない。そもそもなんだ失敗って。あー、まぁ確かに失敗だわな。そんな発想にしかならんのはな。
いや、それでも失敗じゃないと言わねばならん。ワシが言わいで誰が言う~~~っ!(いや結構いると思うぞ同志は)



今の自分はガチャの結果だと思うほど、己の力は削ぎ落とされてるよ。




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