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ブログ(note)を始めてからここまでの心境(デカい独り言)

今日は特に書くこともないが、ブログ(note)をはじめてからここまでの心境でも書くとしよう。完全に思いつきで今から(2020/11/25 a.m.1:00頃~)書く。抽象的で特に内容もない記事なので、別に読み飛ばしてもらっても構わない。私も自分に向けた「備忘録」くらいの気持ちで書いている。私がこのnoteを始めたのは2020/09/14からだから、今日(2020/11/25)で、だいたい2ヶ月と10日というところか。。自分としては、最初に自己紹介の記事を投稿して、その後、2,3本記事を投稿して終わりだろうなあと(本気で)思っていたので、その割には存外長く続いているものだなあと思う。(実は最近、このブログ(note)をマジでやめることも考えていたが、それはまたの機会にでも書くとしよう)

もともとTwitterをやっていたんだよなあ、私…

だいたい自分はもともとTwitterをやっていて、そこで今のアカウントを本格的に稼働してから、だいたい4年8ヶ月くらい(アカウントを取得したのは2013年の12月になっているが、本格的に稼働させたのは自身の就職活動に合わせた2016年の2-3月ごろからだと記憶している)になる。

そこで、今までにしたツイートはだいたい1.1万ツイートである。これはツイ廃にしては少ないが、平均的なTwitterユーザーよりは多い量なのかなあと思う。

だいたい、Twitterの使い方としては、そのとき思ったことを脊髄反射的に呟いたりすることが多いのだが、最近になって、夜中独りになったときに考えたことなど、わりとまとまった内容を連続ツイートの形で投稿するようになった。(いつもそういう使い方をしているわけではないが)

Twitterをきっかけにnoteへ(他にも理由様々)

これだけ(分量的に)まとまった内容を書くのだったら、Twitterよりもブログの方が適しているのではないか?そもそも140文字という制限には若干の窮屈さを感じていたので、ブログをやってみても良いんじゃないか?(Twitterは一応続ける)

あとは、以前ブログでも述べたとおり、「生活の中に少しでも創作的な活動を入れよう」とか、「将来の細い収入源になればいいな」という程度の気持ちでブログ(note)を始めた。あと、無職で暇だからである。ブログを書くなんて、社会人でめちゃくちゃバイタリティーに溢れた方か、何らかの事情でめっちゃ時間があるという人が多いだろう。私も今後、他に注力することができたら、それと並行してブログ(note)を続けるバイタリティーはありそうもないので、まあ、完全にやめるまではいかないにしても、ほぼ活動休止状態にはなると思う。一応、今だって他にもやることはあるが、ある程度暇だから、ブログ(note)が書けている。

数あるブログの中から、noteを選んだのは、Twitterにいる文化人や有名人の中でも使っている方が多いプラットフォームであったということと、誰でも(私でも)使えるくらいUIがシンプルだったということぐらいが理由だ。

昔、Twitterをやっていたときの話、完全なる「"不人気"メンヘラアカウント」として

だらだら自分語りになって申し訳ないが、ここはそういう場所でもあると思うので、過去のSNSでの私の活動についても少し触れておこう。(どうせ、誰も見ない)

実は、今のアカウントを開設する前に、大学生時代に別のTwitterアカウントをいくつか持っていて、そちらでもツイートをしていたのだが、完全なる「メンヘラアカウント」だった(今のも一応「メンヘラアカウント」か…。だとしたら、変わらんじゃないか!)。そこで、厭世的なこと、現状に対する嘆き、将来に対する絶望ばかり呟いていた。当時は診断を受けていなかったものの、その頃から、たぶん「うつ病」は発症していたのだろうと思う。

しかも、私はいわゆる「人気のないタイプのメンヘラ」であった。メンヘラの中には、似た境遇をもつ者から人望を集め、「圧倒的教祖」と化し、自らの周囲を共感者で固めるタイプの「人気のあるタイプのメンヘラ」アカウントというのが存在するが、私はまったくそうはなれなかった。共感してくれる人がまったくいない、ただただ独りで呪詛を吐き続けるタイプの「救えないメンヘラ」であった。それは、現実の私の人間関係にもきっちり反映されていた。たぶん、私のドス黒い思考が、表情や態度等にも現れていて、誰も近づきたがらなかったのだろう。現実の私も大学で1人も友達がいないという状況だった。現実でも孤独だし、ネットでも孤独だし、当時の私は孤独に悶えていた。

就職活動開始以降のTwitter

就職活動を始めた段階で、以前の「メンヘラアカウント」は捨て、新しく就活の情報収集用にアカウントを運用し始めた。そこで、色々知り合いができたり、離れていったりした。仲良くしてくださった方もいた。「メンヘラアカウント」同様、フォロワーの少ないアカウントであった(今も少ない)が、就活関係で色々つながりができたりして、前よりは健全なアカウントになれた。因みに今も使っているアカウントである。就職して働くようになってからは、仕事がかなり忙しい/キツいのもあり、Twitterでの活動頻度は明らかに下がっていった。たぶん、半年くらい(正確なところはわからないが)ツイートをしていない時期があったと思う。それでも、時々、タイムラインに浮上しては、「自分の会社には良い人が多い」とか「現状の職場に満足しています」とかいう、「自分、ホワイト企業に勤めてますよ!」アピールのようなツイートをしていたが、今思えば、少し(というか、かなり)ムリをしていたと思う。実際に、職場には良い人が多く(特に上司・先輩には恵まれた)、同期を除き、人間関係にはまったく問題がなかったのは確かな事実ではあったが。

だが、孤独は埋まらなかったし、仕事内容も自分に合わず(自分が無能すぎて)、かなりキツかった。社会人になって最初の夏頃から精神科にも通いだした。そこでは、まあ予想通り、「うつ病」と診断された。完全に精神は崩壊していたのだが、いちばんヤバい時期にTwitterから離れていた(というか、離れざるを得なかった)おかげで、その間はあまりネガティブなことをツイートすることもなかったように思う。あ、修論の時期(社会人になる前)などは呪詛を吐いていたような気もするが、、まあそれは良いだろう。そういうわけで、精神的に参っていた時期は、Twitterのアプリはたまに起動こそするものの、だいたいは、ただボーッと、ツイートはせず、他人のツイートを眺めていた。自分と近しいツイッタラーがたくさんいいねや称賛のコメントをもらっているのを見ては自分の言葉の「弱さ」を恥じていた。

自分の言葉のもつ「力」についての悩み

先ほど述べた「人気のないタイプのメンヘラ」とも通ずる話ではあるが、どうも私は「人から共感を得られるような言葉を放つ力がないタイプ」の人間らしい。今もこの思いは完全には消えていない。後述するが、noteを書くようになってから、アクセス数(PV数)やいいね数などを多少気にするようになったが(熱心に私の記事を読んでくださっている方が、もしいれば大変申し訳ないが)、今もPV数は塵のようなモノである。とても人様に公開できるような数字ではない。

私のnoteのPV数について思うところ①(「有益性」と「娯楽性」の欠如)

そもそも、まだ記事のストックが30そこそこしかないから話にならないというのはもちろんあるが、才能のある人は、初めて投稿した記事とか、月イチ更新とかでも莫大なPV数を稼いでいる。やはり、私は凡人(以下)なのだと再確認させられる。根本的にPVが集まらないのは、私の書く文章・言葉に「力」が足りないからだと日々認識している。あとは、後述するが、「有益性」と「娯楽性」がない。つまり、「役にも立たないし、おもろない」ということ。そんな中でも、少数ながら継続的に私の記事を読んでくださっている方がいるようで(いいね数の推移などから、なんとなくわかる)、ありがたい限りである。この場で感謝申し上げる。

文章がムダに長くなってしまう私の悪い癖

さあ、前置きが長くなってしまった。前置きだけで、noteの平均的な文章量(おそらく2000文字前後)を越えてしまうのが、私のダメなところだ。正確に計測したことがないから、わからないが、普段noteを書いていてWordやnoteに表示される文字数の感覚から言うと、だいたい私のこれまで書いたnoteの平均文字数は6000-7000字というところだろう。どうでも良いことを漠々と書き連ねるだけが私の能なのである。自己卑下でも何でもなく、事実、需要のない能力である。少なくとも、今のところは。

私のnoteのPV数について思うところ②(可処分時間の観点から)

当たり前の話だが、人様の可処分時間は限られている。だから、その貴重な時間を使ってnoteやブログを見るなら、相当な有名人のブログかよほど好きな書き手のモノしかみないのが普通であろう。私のようなどこの馬の骨ともわからない一般人のブログなんて読んでる暇は真面目に働いている人たちにはない。

だから、人様の貴重な時間をできるだけ奪わないように可能な限り、文章を短くするというのが、アクセスを上げるためには必要なことだと考えている。もちろん、内容は薄めずにだ。簡潔にギュッと詰まった、密度の濃い文章が書きたい(「でもこれは"頭の良い人"にしかできない書き方だよなー(鼻ホジ)」みたいな思いもある)。一方で、密度の濃い文章にすることで、文章の可読性は下がるという悩みも存在する(これは避けられない)。私は今のところ(こんな文章を書きながら言うのもなんだが)「読みやすい文章」を意識して書いているので、読みやすさ(可読性)も両立させたいという思いもある。要は文章の「密度」と「可読性」のバランスが肝要だ。今の私の文章はやや「可読性」に比重が置かれているので、もう少し「密度」を上げたいという話である。両者のバランスの取れた文章を書くこと、それが今の私の目標だ。noteでも私が参考にさせて頂いている書き手の方は何名かいらっしゃるが、みんな少ない文字数で上手に要点を外さずに(高密度で)、しかも読んでいて楽しい(高可読性な)記事を書かれる。そもそも、頭の良い人と私とでは見えている世界の「解像度」がまるで違う。それが、文章に如実に現れていたりするのだ。そこに、圧倒的な実力差を感じる。

訴求力に欠ける雑記を集めたのが私のnote

可処分時間以外の観点から、今の私のnoteを評価すると、先述のように、内容が「有益性」にも「娯楽性」にも振りきれておらず、ただの雑記みたいな形に終始してしまっている。センセーショナルな時事ネタ(今で言うと、「鬼滅の刃ネタ」)なんかを取り扱うことも一時考えたが、そもそもそんなネタを持っていないし、私には向いてなさそうだ。なので、これもできない。だから、どうしたって読者への訴求力に欠ける。この文章もそうだ。そういった文章の場合、書き手の文章の味(個性)や文体によほどの魅力がないと、固定の読者や、もっと言えば、ファンみたいな人たちはつかない。

「有益性」にも「娯楽性」にも特化できない理由は、私に1つの話題を掘り下げて語れるだけの専門性(現状、書籍からのインプットが厳しいというのも関係している)がないからという能力の面が1つと、もともと対面での会話でも面白い、気の利いたことが言えないユーモアのなさという性格(これも能力か…)の面の2つがあると個人的には思っている。専門性があれば、有益なことを語れるだろうし、ユーモアのセンスがあれば、面白い(娯楽性の高い)記事が書けるだろう。両者は私の持ち札にはない「カード」である。

広く浅く話題を取り扱って、入門者の「ガイド」のような役割ができないか?

じゃあ、私はつまらない文章を書くことしかできないのか?私は"全方位的"にそうだとまでは思わない。「有益性」や「娯楽性」に振りきれなくてもやれることはある。私は「雑多な話題を広く浅く取り扱って、その分野の初心者や、その話題に興味はあるがまだ参入できていない人、このような方たちを洞窟の入り口から少し入ったところまで案内する『ガイド』のような役割ができれば良いな」と思って文章を書いているところがある。私が書いた記事をきっかけにある分野に興味をもってくれたり、実際にやってみようかなと思ってくれたりしたら、「それはもう最高!」と思って文章を書いている。

「内心の吐露」としての私のnoteと以前からの変化

あと、私が文章を書く目的といえば、「内心の吐露」である。先ほど話題に出した「メンヘラTwitterアカウント」と同じような使い方である。だが、最近は長い休養を得られたこともあって、当時の暗澹とした感情からは徐々に抜け出せている。「双極性障害」という持病の特性上、ネガティブな感情(「稼げない。来年の今頃は死んでるだろう…」みたいなやつ)は頻繁に発生し、それについて書くことももちろんあるが、当時と違うのは「生きることを前提にどう生きていけば良いのか考えられるようになったこと」である。だから、「死にたい」という正直な気持ちは吐き出しつつも、「いや、でも、どうやったら生き延びられるのだろうか?」ということも同時に考えられるようになった。

うつが一番酷かったときの私は「死にたい」しか口から発しないロボットであった。自殺未遂をした前後、おそらく、いちばんうつが酷かった時期の話をすると、会社から自宅(アパート)に帰るまでの道を呆然としながら歩いて、自宅の前をそのまま真っ直ぐ通りすぎて、気づいたら自宅から1 kmくらい離れた場所にいたとか、カラオケに遊びに行っている最中に希死念慮の発作が出て、その場で床に倒れ込んで30分くらいに渡って「死にたい、死にたい、死にたい!」と喚いて、涙が止まらなくなって、店員さんに「大丈夫ですか!?」と声をかけられたり(あのときの店員さん、ご迷惑おかけして大変申し訳ない)、仕事で大失敗をした日にフラフラになりながら、自宅の一歩手前まで来たところで、力尽きて倒れ込み、その場で1時間くらい立ち上がれなくなって、通りかかったアパートの人に肩を貸してもらって、ようやく自宅に辿り着いた(あのとき肩を貸してくれた方、すみません)など、色んな(最悪な)エピソードがある。

今、noteで書いた内容を自身で改めて見返してみると、内容がネガティブな記事であっても、当時のような異常に強い負の感情は感じないし、中にはポジティブな側面も含まれていたりする。そういうのを見て、「当時よりはだいぶマシになったんだな私」と思えるようになった。

noteを始めてから生活面で変わったこと(生活がネタ集めの場と化した)

話は変わるが、noteを始めてから、具体的に生活面で変わったこととしては、「メモや写真の類いを取る量が格段に増えた」ということである。人と会話しているときに興味深い情報が入ったり、人が面白いフレーズを言っていたりしたら、即座にLINEでメモを取る。Twitterでも自分のツイート(自分の思考の流れ)や他人のツイートでも面白いなと思うものは即座にスクショして保存していつでも見返せるようにしている。外に出かけると、常にスマホのカメラを構えて、気になる光景が目に入ったら、すぐにシャッターを押せるようにしている。私がnoteを書き続けて行く上でのいちばんの課題は、「ネタを切らさないこと」だと思っているので、「どんなに些細なことでも、見つけたら何だってネタにしてやろう」という気持ちで毎日を過ごしている。

「どこかに行ったら必ずネタを拾って帰ってくる」
「家での何気ない会話さえもネタにしてやる」

そういう感覚で毎日を過ごすようになった。

こんなことを言った直後に、いきなり矛盾するようなことを言うが、「でもこれ、実はあんまりやり過ぎると続かないんだよなあ…」と思ったりもする。「ネタを見つけること」に拘りすぎると、「ネタがないと記事が書けない人」になってしまう。最近、私はnoteを続けるために、文章を書くことの「省エネ化」を図っている(ネタ集めは続けつつ)。もちろん、"意図的に"である。以前は、PCでネタ帳のようなものをきっちり作って、それを元に書いていたが、今はこの記事みたいに即興で思いついたことをとりあえず書いてみるというやり方にシフトさせるように敢えてしている。実際、今はこの記事をお風呂場でスマホを弄りながら書いている(もうのぼせそうだ…)。こういうスタイルを取ることによって、文章を書くときの(心理的)負担が大きく減った。これは、noteを書き始めてから身につけた(今、身につけつつある)技術である。文章を書くことを細く長くでも続けていくために、「省エネ化」は必要な技術だと私は考えている。これと同時に、時間の許す限りは、先ほど言ったように、日々の生活からネタを収集し、キッチリと練った文章もたまには投稿できれば、、という感じである。先述の文章の「密度」と「可読性」の問題と同じく、これもバランスが大事だと思う。

まあ、いずれにせよ、noteは私の生活スタイルを大きく変えた。以前の記事でも何回か触れているが、私は病気の症状もあって、現状、文章を読むことによるインプットがほとんどできない。知識欲自体はあるのだが…。こういうわけで、大変もどかしい思いをしている。代わりに「どこからインプットしているのか?」というと、先ほど述べた家族や知人との会話、外に出て見た景色や出来事、あとはYouTubeなどの動画メディアで得た情報(正直、動画を見るのも結構キツい)やネットメディアに掲載されている短い文章(あと、Twitter)などが私の主な情報の輸入元となっている。

最後に(私のnoteのスタイル「自分の持ったカードで勝負しよう!」)

noteを始めてからの心境とか、noteを始めてから変わったこととか、個人的なしょうもない、これこそ、「有益性」も「娯楽性」もない記事に仕上がってしまった。申し訳ないが、こういうことをだらだら書き連ねるのが、私のスタイルだ。もう、これは自分の生まれもった得手/不得手なんだから仕方がない。「人生、自分のもったカードで勝負するしかない(私の手札は極めて悪いけれども)」のだ。「全然、役が揃わない。」そういうこともあるかもしれない。だが、基本的には自分のもったカード(自分の得意なもの)を伸ばすという方向性でやっていこうと思う。

もちろん、アクセス数(PV数)などをつぶさに確認して、どういう需要があるのかを分析したり、自分のスタイルを微調整したりするのは必要なことである。実際に私もいくつかnoteで「実験」をしている。投稿する日時を様々に変えてアクセスのばらつきを見たり、連続投稿してみたり、たまに短文の記事をあげてみたり、硬軟織りまぜた記事を投稿したり、記事の内容およびテイストが偏らないように極力配慮したり等である。当たり前であるが、ブログ(note)やっている以上は、いかに一円にもなっていないとはいえ、自分の書いた記事にどれくらいの反響があったのか等は嫌でも気になるものである。私は毎日どころか、ほぼ毎時間チェックしている。一応、近いところでの、個人的な数値目標もあるが、それは今回は伏せておこう。言っておくと、大した数値ではない。あんまり大きな目標を立てると失敗するのは今までの経験で学んでいるので、まずは小さなハードルを越えるところから達成していきたい。今日はこんなところで。長らくお付き合い頂き誠に感謝!

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