言葉をどう評価するか
「良い質問ですね」なんて言葉も聞かれるが、良い質問の定義とは何なのか…と考えることもある。勉強したからこそ感じる疑問もきっとある。
その時の「勉強した」「思考を深めた」と考える基準は、あくまで評価者の中にある。評価者は、相手の理解度を受け止め、その疑問の価値を判断するのである。
つまり、学習者側がある程度その過程を明示できることはより重要であると感じる。
それは、現在の学習指導要領の「学びに向かう力」にも繋がる部分であると考えたからだ。
自分が小学生の時、地域の消防署に見学に行ったことがある。質問の時間に私は、「救急車はどのくらいガソリンが無くなったら、ガソリンスタンドに行くのですか?」という質問をした。そして、その聞いた答えを、何かにまとめた記憶がある。
しかし、まとめる時に、先ほどの質問を書いただけでは、なぜ消防署に行ってそんなことを聞いたのか全くわからない。思考の流れが見えていないのだ。
その時の私の思考を、振り返りながら考えてみると
①父親はガソリンが減る時、つまり、走れる距離が短い時に給油に行く。
②救急車は、病院までの長い距離を運転されることがある。
という二つの知識から、長い距離を走ろうと思った時に走れなくなってしまったら困ってしまう、だからガソリンはなるべく多い方が良いと思っていた。でも、長い距離を走る救急車は、ガソリンを入れるタイミングも限られるのではいないかと考えていた(ような気がする)。
そうした頭の流れは、残念ながら他人は知ることができない。疑問をただの疑問にせず、質問を思いついた背景(理由)まで含めて考えるは、自分の思考をメタ的に考えて行くことにつながっていくのではないか。
しかし、当時と私は、言語化できるほどの力を持っていなかった。その質問の価値を、自分で高めることができなかったのだ。
学習者は、疑問を抱き、それをなぜ抱いたのか考えて言語化できるようにしていくことが必要だ。
一方で、評価者の立場になってみて、そうした言語化出来ない部分を汲み取り、言語化を代わりにすることも諦めずにいたい。
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