『人生の終着駅』

『人生の終着駅』

駅構内にはこれまでほとんど見かけることのなかった層しかいなかった。

ベビーカーを押した母親。ミニスカートの制服から太腿を露出させた女子高生。杖をついた老人。

ビジネスバッグに黒いコートを着た自分がひどく場違いに思える。

いまいましい気持ちを吐き出したくて線路に唾を吐いた。下を向いた拍子に目に入った自分のコードバンレザーのウィングチップはかつての艶を失い、見るも無残に白くささくれ立っている。

手ぶらで歩くのが居心地悪くて抱えているだけのビジネスバッグは、今は通院のときだけに持ち歩く物体になった。

書類やPCはもう入っていない。今やバッグに入れるのは、薬局で受け取った「寝るためのお薬」、「やる気を出すためのお薬」、「不安を取り除くお薬」、「便秘を解消するお薬」、などだ。

寝て起きて飯を食って排泄する。それらの人間にとってはもっとも基本的な営みすら、医療の手を借りなければ、今の自分にはできなくなっている。

5㎏の米袋を両肩に乗せているかのような重さを感じながら、ホームに停車した電車に乗り込んだ。

車両には誰も乗っていない。私は座席の一番端に腰掛けた。

「やあ、あなたも行かれるんですな」

唐突に声をかけられ、ぎょっとした。誰もいなかったはずの車両、自分の隣の席に、いつの間にか老人男性が座っていた。

誰とも話したくないし誰の近くにもいたくなかったので席を移動しようとしたが、男の次の言葉で私は動きを止めた。

「あそこはいいところですな、『人生の終着駅』。私の友人も何人か立て続けに向いましたよ」

馬鹿にされたのかと思いカッとなった。

「人生の終着駅ってあんた!失礼だな!」

男はそんな私におかまいなくしゃべりつづけた。

「おや、ひょっとしてご存じなかった……?これは失敬。比喩ではありませんよ。物理(フィジカル)的な意味での『人生の終着駅』。この電車に乗っていれば、行けるんですよ。」

「は……はぁ?」

「この電車。品川駅で回送になりますよね。通常、乗客はみんな降りなければならない。だけど、そのまま乗っていたい人間は『人生の終着駅』に連れて行ってもらえるんですよ。いいところらしいですよ?世間一般的には地獄と表現する人間もいるらしいですが、好んで行く者にとっては、あそこほどの天国もない。仲間もたくさんできて、存外、愉快な暮らしができるらしい」

この老人は何を言っているのだろう。『人生の終着駅』なんて場所が本当にあるはず、ないじゃないか。馬鹿な!

老人は私の考えを見透かしたように、かすかに笑い、私に向かってあるひとつのハンド・ジェスチャーをしてみせた。その瞬間

「品川ーーーー。品川ーーーー。
この電車は当駅止まりです。
ご乗車にはなれませんのでご注意ください」

アナウンスが流れた。ハッとして見た電光表示には、確かに「品川」と出ている。

「あっ、あの、ここで……?」

老人に向かって尋ねるために横を向くと、もう男は消えていた。

なんなんだ。『人生の終着駅』って。

私はバッグに入った無数の「お薬」に思いをはせた。仕事と同時に失った友人や恋人の顔にも思いを巡らせた。

そこに行けば、仲間ができる……?存外愉快な暮らしができる……?

「お客さん、降りてくださーーーい」

駅員が前に立って私を促す。

ここで降りて、次の電車を待つ。そして乗り込んだ「回送」じゃない電車に乗って、私はたった一人の真っ暗な部屋に帰る。電球を買うお金がないから真っ暗な部屋。誰からもかかってこない電話をじっとにらみつづけるだけの毎日。「お薬」がなければ訪れない睡眠。「お薬」がなければお茶一杯すら喉をとおらない日々。

どうすれば、どうすればあの部屋に帰らなくて済む?

私は必死で老人の言葉を思い返した。存外愉快な暮らしができる……?

首筋と額に無数の汗が浮き出てぱたぱたと黒いコートに落ちてゆくのを感じる。私は駅員を凝視した。

「あーーお客さん、この電車回送になっちゃうんでぇーーー」

駅員がそう言いかけたとき、老人が最後に私に示してみせたハンド・ジェスチャーを思い出し、ふとそれを真似た。深い考えがあったわけではない。

途端に駅員の顔色が変わっていった。

「大変失礼致しました。かしこまりました、このまま乗車なさっていてください」

駅員は足早に去って行った。

何が起こるんだ?不安になってあたりを見回すと、ホームには次の電車を待って従順に列をなす人々が見えた。

プシューと音をたてて、電車のドアが閉まった。ガラス越しに見える人々の列が、だんだん遠くなっていく。

電気を消したまま走る薄暗い車内で私は、これからどうなるんだろう、と考えながらぎゅっとビジネスバッグ抱えている。

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