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客観的にものを見れる人は自己主張には向かない

noteなどを読んでますと、これは、どちらかといえばという曖昧なはなしでしかないのですが、より客観的なアプローチをしようとするタイプと、客観というより自分の主観をどこまでもごり押ししようとするタイプに二分できそうです。

もちろん、これはその人当人に自存的に備わってるというより、誰がその人を見るかによっても変わってくるでしょう。

とにかく、これはちょっと大雑把すぎて危険でもあるのですが、敢えて人を、より客観的なアプローチを指向するタイプと、主観ごり押しタイプとに二分しましょう。
noteをいろいろ読んでるとどうしてもそういう違いがあると思わざるを得ません。
もちろんこれは、僕がある人のnoteを読んだ後、「この人は客観タイプか主観ごり押しタイプかどっちだろう」とカテゴリーわけしてるのじゃありません(記事を読んだ後、そんな面倒なことをする余力はありません)

というようなはなしをすると、どうしても「客観タイプ」が偉く、「主観ごり押しタイプ」は迷惑だというはなしに落ち着きそうですが、そんな単純な結論に持っていきたいわけじゃ無論なく、ここではまず両者の特徴と、それぞれの長所と短所を述べてみたいと思います。

さて「客観アプローチタイプ」と「主観ごり押しタイプ」では、どうしても「客観アプローチタイプ」のほうがあたまよさそうですよね。
どちらかといえばこれはやはり、客観アプローチタイプのほうがいわゆる頭脳は優秀で洞察力もあるケースが多いと思います。

んじゃ、やっぱり客観アプローチの勝ちじゃん?

いや、そんな単純なはなしでもありません。

客観アプローチタイプというのは、しばし、その客観的であろうとする姿勢のおかげで「あるがまま」を容認するアプローチを取ってしまいがちということです。
それは功を奏する場合もあれば、そうでない場合もあります。
客観的にアプローチするというのは、ひとつには複数の観点からものを見れるということです。
「警察官の立場」もわかるし「泥棒の状況」もわかるということです。
ただ、これだと結局どちらの立場にも立てないんです。
傍観者みたいな頼りない感じになってしまうんです。
「死刑賛成」でもなく、かといって「死刑反対」でもないみたいな、「まぁ、どちらかといえば反対だけど…でも…」みたいな歯切れの悪い感じになりやすいんです。
これが、主観ゴリ押しタイプであればこうではありません。
主観ゴリ押しタイプは常に主張がハッキリしています。
「法の正義に逆らったものには重い刑罰を」と主張がしばしハッキリしており、逆に「法の正義」のおかげで劣勢に置かれれば、可能な限りこれを破壊しようとするかもしれません。
客観タイプのような曖昧さがないのです。
こういうと、主観ゴリ押しタイプは始末の悪い人のような気もしてきますが、どちらがよいかは状況次第なのです。あるいは結果次第なのです。
たとえば、バスの優先席で20代の若者が、すぐ側にお年寄りが立ってるのに席を譲ろうとしなかったとしましょう。このすぐそばに正義感の強い主観ゴリ押しタイプがいればタダじゃ済まないのは容易に分かります。
「どうしてあんたが座ってるの、譲りなさい」と怒鳴られるでしょう。
主観ゴリ押しタイプは正義の実践者なのです。
こういうと今度は主観ゴリ押しタイプが素晴らしいように思えますが、これが功を奏すか奏さないかは、もちろん状況次第、結果次第です。
これが、お年寄りがホントに立ってるのが辛くて、若者が全然立っても余裕な場合は、この干渉はとりあえず正義でしょう。
しかし逆の場合も皆無ではないかもしれません。
20代の若者が死ぬほどくたびれてて、逆に側で立ってるお年寄りは、降りるバス停まで立ったままでもそんな特別ダメージでもないということもありえます。(それにしても、どちらかといえば座りたいことのほうが多いかもしれませんが、僕は高齢の方に乗り物で席を譲るのは日本のソーシャルなあり方ではまだない、どちらかといえば、やや例外なあり方なんだと思います。ヨーロッパだと、これは相当昔に読んだ本に書いてあったんですが、同じ状況なら、若者は首をつままれるのは間違いないというはなしです。もちろんそれこそが正義だとも言いませんが…)
すこしはなしがそれましたが、この様に客観アプローチタイプと主観ゴリ押しタイプでどっちがrightかは、その主体自体より、むしろ状況や結果のほうが決定権を握っているということです。
こういうとき、主観ゴリ押しタイプは困っている(であろう)お年寄りに感情的に入れ込んで一方的に自己主張します。
若者だって、これは満員電車でよくあることですが、吐き気や貧血を我慢して無理して立ってることはいっぱいありますし、立ったままでも大して困らないお年寄りもたまにいるでしょう。
お年寄りが非常に困っていて、若者が非常に余裕をこいてれば、主観ゴリ押しタイプの干渉は概ね当を得ているかもしれません。
こうしてみてくると主観ゴリ押しタイプはマイナスの結果にならないという条件を満たしてる限りにおいて、困った事態、由々しき事態の打開には、客観アプローチタイプより力はあるのです。
一方、客観アプローチタイプ的な洞察型は、しばし平和時のほうが、またはあまり強い混乱は起こってない時の方が覇権を握りやすいと思います。
若いとき「アメリカインディアンの教え」(だったかな…)という本を読んで、アメリカインディアンの洞察ってのはスゴいと個人的に思いました。
しかし、それが世を治めるのは、やはり平和時という条件がつきます。
ヨーロッパ大陸から押しかけた勢力の前にはインディアンの洞察もまるで歯が立たず、部族としてのインディアンは10分の1以下になってしまったのです。
また、主観ゴリ押しタイプの裏目に出たケースは、たとえばヒトラーナチスとかがあると思います。
当時のドイツはベルサイユ条約によって大変な劣勢に立たされていたので、ヒトラーの主観ゴリ押しはドイツの人々に大歓迎されたんです。
日本の二・二六事件以降の軍国主義も、多少はこれと被るかもしれません。
いずれにせよ、客観アプローチタイプはこういった混乱期の主観ゴリ押しタイプの多発にしばし為す術がないんです。
客観アプローチタイプは乱世的な混乱期には覇権を握れないんです。
よく第二次大戦の日本の敗北を、軍国ファシズムに対する知識人の敗北みたいな言い方を若いころ本で読みましたが、客観アプローチタイプは軍部の主観ゴリ押しの前には構造的に歯が立たないのです。
もっといえば、客観アプローチタイプはそもそも覇権なんかを握れるタイプじゃ基本ないんです。
それはタイプ的に自己主張に向かないからです。
色々な観点から物ごとを見れるため自己主張ができないんです。
客観アプローチタイプは「アーリア民族」とか「日本民族」の優越を主張されるとこれに歯が立たないのです。
では、客観アプローチタイプと主観ゴリ押しタイプは生まれつき決まっていてどうしようもないのでしょうか?
ある程度は資質にも左右されますが、置かれてる人生状況にも多少は左右されます。有り体にいえば、超劣勢に立たされれば大抵の人は主観ゴリ押しタイプに変身するでしょう。
僕もnoteで追い詰められてるときの記事はどうしても主観ゴリ押し型になってしまいます。
追い詰められれば、大抵の人は主観ゴリ押し型になるだろうという気がします。
noteで「これは明らかに主観ゴリ押し型だな」と感じてしまう人やまたは記事は、これは僕の正に主観でしかないですけど、多分ハタからどう見えようと主観的に追い詰められてるんだと思います。
「どうして?素晴らしいダンナさんに恵まれてたり、平均的な人が羨むくらいの成功を手に入れてるのに…」と不思議になることもあるんですが、得てしてそういう人の方がかえって心理的に追い詰められるものなのかもしれません。
では、主観ゴリ押しタイプはヒトラーみたくなるしかないのか?
そういうわけじゃないですけど、しばし、ひとの感情に訴えるものとか共感されるものって劣勢に置かれてる者への共感だったりするんです。
日本の二・二六事件も、貧窮している農民を放っておく政府に怒り狂った青年将校の暴挙に多くの人はむしろ共感した筋もあるんです。
一方、客観アプローチタイプはしばし、こういう事件に対しても、青年将校に共感することも、「いけないことだ」とモラルを振りかざすこともそのどちらもできないんです。
客観アプローチタイプは乱世時には無能をさらけ出しやすいんです。
資本主義社会はどちらかといえば人の自己主張的前進を原動力にしています。
主張がない人は遅れをとって風下に置かれがちです。
主観ゴリ押しタイプのほうが本来的には成功しやすいんです。
乱世時ほどそうだと思います。
ただ乱世時の主観ゴリ押しタイプは極端に失敗するとわかりやすい例では先ほど挙げたヒトラーのような例があります。
そうすると、客観アプローチタイプはnoteでも「わたしの主張」という形で、それを「わたしの(個人的)意見」として語ろうとするのには、資質的にやや向かないでしょう。
客観アプローチタイプは本来的に資本主義社会で、特にわたしの主張を軸にして覇権を握ったりは難しいんです。
そうすると小説みたいな形にして、複数の登場人物にいろいろな観点を託すというのもありでしょう。



(補足的あとがき)
誰でも追い詰められれば主観ゴリ押し型になると思いますし、資本主義社会は主観ゴリ押し型のほうが本来的には覇権を握れるんです。
たとえばビル・ゲイツだとかスティーブ・ジョブズみたいなタイプは将来を客観的に予見した客観アプローチタイプのように見えますが、僕はこの種の知性は、客観アプローチタイプというより、主観をどこまでもゴリ押ししてリアライズ(実現化)した主観ゴリ押しタイプだと考えています。
だから資本主義的な現実社会で覇権を握りやすいのは、やっぱり主観ゴリ押しタイプだと思います。
ただ、極端な失敗をするといままでのべた例のようになるということです。
さらに付け加えると、日本では客観アプローチタイプはその関心が政治理論に向いたときしばし左翼の立場をとりがちです。しかし世の中が困窮してくると人心には余裕がなくなるので、どうしても困窮した層を中心に心情論や感情論に流されやすくなるんです。単なる心情論や感情論だったら共鳴する人の数も限られてるんだけど、もっともらしい理屈がつけば共鳴する人は増えるでしょう。こうなると左派は偽善をののしられて失脚し、感情論や心情論を基盤とする右派に吸収されがちだということです。とくに情弱(情報弱者)と呼ばれてる層のほうがそうなりやすいでしょう。(僕もどちらかといえば情弱にはいるのかもしれません)これは日本の混乱期に起こりやすいシナリオかもしれません。「仇を討つ」みたいな感情論が世の主原動力になり、それに賛成したわけではない人たちまでそれに引きずられたのです。
それが、第二次大戦時の日本とかドイツであったことでしょう。
日本とドイツがそうなったのはまわりの国との関係もあったと思いますけど
最後にまとめると、客観アプローチタイプと主観ゴリ押しタイプでどっちがどうとか単純に優劣を決められるものではなく、それぞれに長所と短所があり、どっちがどうでるかは、状況や結果も多くを握っているといえそうです。

今日はこのへんでおしまいにしようかな、ではまた!

(作成データ)
書き始め2020年4月5日16時20分
下書きなし、パソコン1発書き
投稿、同日19時26分
(投稿後に10回は加筆訂正をしています)

やっぱり外出は少なめになりました。

おかげで余計なところに凝り性ぶりを発揮してます。

書き始め時間はパソコンで打文が終わったときスマホで確認して紙の表にいつも記録してます(こわっ~)そういう面倒くさいことはもっとジジイになればやらなくなるだろうな。

因みに、あとがきを除いた文字数は4222字で、こういうのも記録してます。(いつか、やらなくなる気もする)

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