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若い時期と中年期について(個人的回想)

こんにちは、木月です。
実は人生全般のモチベーションは、前記事で書いた通り下がっておりまして、今回も軽いランニングのようなサラッとした記事にしたいと思います。

モチベーションが下がってるといってもnoteの記事を書いてるくらいだから、ひょっとするとそんなに重症ではないのかもしれません。

タイトルに中年期というようなことばを使いましたが、わたしは実年齢的にはあと1年足らずで50歳というようなところにいます。それじゃあ、中年じゃなくて壮年だろう?
いや、いや、いや、そうかもしれませんが、しかし、でも50歳まであと1年たらずといっても、妻子がいるわけでもなく、会社などで係長とかそれ以上の肩書を、つまり年相応の肩書をもってるわけでもなく、他者にわかりやすいキャリアや歳相応の資産を築けてるわけでもなくとあれば、壮年だの中年だのといってみたところでピンとこない部分もあります。

しかし、確かに、もう若くはないのかもしれないと思うこともなくはありません。そこで若くはないというところを仮に中年期として(老年については語れません。それはまだ未体験ゾーンです)中年期と若い時期ってなにか違うのかってところを書いてみたいと思います。



ではまず、若い時期の特徴はなにか?
ぼくは、今のところに過ぎぎませんが、それは空費にあるのではないかと考えています。
はやくから入れ込めるものを持てた人は別です。これだ!というものを見つけてそれに邁進している人は別です。たとえば、野球の大谷選手ですとかフィギュアの羽生選手とかです。自分の人生をしっかり見つけた人です(見つけたのではないのかもしれませんが)
また、空費とは別に、見当違いの対象に入れ込む…これも若いときにありがちなことです。
そのふたつについてはなしましょう。
まず、空費ということについて…
空費がどうしておこるのか?
学校(大学までふくめて)時代までは、文科省の学科とか同じようなことをみんな横並びでやっています。
で、学校が終わりに近づいて就職となったとき、生産社会の用意している選択肢は、学校でやったことの延長線上にあるものは少ないんで、何をやったらいいのか分からない、何が向いてるのか分からない人が多いんです。
そうすると、生産社会と気持ちのピントが合わないんですよね。
今は、大学に進学する人が増えましたが、大学みたいな空間と、会社組織の空間ってギャップがありすぎるんですよね。
バブルのころまでは会社も輝いているところが多かったんです。
まだ、モノとカネの時代だったので、人と会社の相性って今より全然よかったんです。世界のSONY,世界のトヨタ、世界のパナソニック、国内向けの会社でもJTBにNTTに人々にとって眩しい企業も多かったんです。
人々は、仕事が終わると、ビルやデパートの屋上のビヤガーデンでみんなでおいしいビールを飲んだんです(もちろん、嫌々つきあったひともいたでしょう。ちなみに僕は行ったことありません)
コンプライアンスだ何だ軍隊みたいなルールもいまよりは少なく、正直昔の職場は怒号も飛び交ってましたが、会社も成長したし、個人の生活もよくなったんです。ところがそういう時代は終わってしまったんで、生産社会の追求するものと、これから社会に出ていく人の気持ちのピントは合わないのだと思います。
よく、20代くらいの若者が、バイクでプォ~ンとかけたたましく走ってますけど、コンビニで働くことをすすめても、それも時間の空費になってしまうかもしれないし、そうすると、若いときっていうのは、時間もエネルギーもたくさんあるのに、これ!というものが見つからない場合は、それを空費する宿命なのかもしれません。生産社会に合致するように、時間とエネルギーを組織できたりはしないものなのかもしれません。
これが空費。
で、もうひとつ。
見当ちがいの対象に入れ込むというのも若いときに起こりがちです。
アイドルとか女子アナとかに入れ込むケースは多いですよね。
ぼくは、若い頃ミュージシャンになりたかったのですが、ムリだと気付くのに随分な歳月がかかってしまいました。趣味として楽器を楽しむなら、AコードやCコードをどうやって押さえればいいのかわかるし、「ド」がどこかもわかるので全てがムダではなかったにせよ、職業としてならムダだったかもしれません。
宗教に入れ込んで、刑務所へ入る展開になった若い人のはなしは、まだみなさんの記憶しているところでしょう。
でも女子アナに入れ込んでる学生バイトの子に、「それムダだから」って言っても、それ自体がムダですよね。
ポジティブに入れ込める対象があるのは素敵なことだし、それは一生の宝だっていう人もいるでしょうし、その通りかもしれません。
ただ、麻央ちゃんは自分の嫁にはならないと悟ったころにもう40ちかくて彼女もなしだと、人生テキトーに苦しいかもしれません。
っていうことで、若いときは往々にして、生産社会と気持ちのピントが合わずこれを空費し、また見当違いなことに入れ込むもんだというのが、わたしの今現在の、また多少経験論的なはなしではありますが結論です。

では、じゃあ中年期は?
中年期はそれまでにそこそこの結果が出せた人、多少は自分の経歴やキャリアを分かりやすく説明できる人とそうでない人で全然かわってくるかもしれません。
僕は残念ながら後者のくちなので、それを前提にはなしましょう。
では若い頃、生産社会と気持ちのピントが合わず、合わないなら合わないなりに自由業や自営業、または起業などでそれなりに自分のポジションを築けたというわけでもない私にとっての中年期とは?
中年期にさしかかって、僕みたいに50歳が近づいて、まだこれといった結果から見放されていると正直苦しいことも多いです。
でも生産社会に気持ちのピントが合わないというのは相変わらずあるんです。それはポジションにもよります。たとえば僕がどこかの会社の課長さんだったり、小池都知事みたいな社会的立場だったら生産社会と気持ちのピントが合わないなんて考えにくいし、また気持ちのピントが合わないなんて言ってられないでしょう。でも、僕のいるポジションは底辺もいいとこなんで、そこにピントが合わない、合わせたくないときもあるんです。
ひと言いえば引き裂かれているんです。
なんだ、統合失調症か!ってあんまり簡単に片づけられると、内心、ちょっとムッとしますけど、でも隠遁願望と結果を出したいという矛盾する願望を抱え持ってます。どっちか一方だったらこんな楽なことはありません。
二十代だったら隠遁に徹するという選択もありますし、仮に隠遁しても後で十分巻き返せるかもしれません。人生先が長いからです。
「ようするに、逃げたいんだな?」といえば全否定もできません。
「逃げるのは卑怯だぞ!」その理屈もわかります。
しかし、どうでしょう?
たとえば、第二次大戦の日本軍のような明らかに負け戦をしてる軍隊を考えてみましょう。役職が中佐クラスだったら普通逃げないでしょう。考えるまでもありません。しかし、三等歩兵でフィリピンのジャングル戦線に送られる輸送機に明日乗り込む運命だったらどうでしょう?
明日、神風特攻機に乗り込む三等歩兵だったら?
そりゃあ、神風特攻機にのりこんで闘うあなたに「きゃあ~ステキ!男らしい」と絶叫してくれる女の子がいないとは限りませんし、お母さんはひょっとすると「立派に死んでくるんだよ」と送り出すかもしれません。
しかし、どうでしょう?
中佐クラスの人は、戦後、戦犯をまぬかれて、むしろ平和主義国家の首相に返り咲き、一方のあなたは、ただ名誉の戦死。というか犬死。
いや、はなしがそれてしまいました。
つまり、さすがにここへきて、結果につなげたいと若い頃よりむしろ燃え盛っている自分と、生産社会の追求するものや成功になにがしかの空虚を感じて、相変わらずこれと距離をとりたい自分のふたつがいるんですね。
個人的なはなしですが、先年父が亡くなりまして、生きているうちにこれといった結果を見せられなかったことを残念に思うこともあるわたしが、このまま底辺みたいなところで隠遁に近い境遇の人生を終えてしまっていいのか、という、なにか残焼とでもいうか、なにをやるにも三十代のころより疲れやすくなってる私の胸中でそんなようなものが燻っています。
おやおや、ちょっと感傷的になってしまったようです。
こんなところが、わたしが考える、若い時期と中年期のそれぞれです。
自分の経験から引き出したはなしなので、こういったはなしは本来ひとの数だけあるものだと思います。
中年期がいかようなものかについては、また機会があったら別のところではなしますね。
軽いランニングにとどめるとか言って、3500字を超えてしまいました。ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。

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