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即時満足の追及に人を走らせる「いいね」という世界観

こんにちは、木月まことです。

タイトルからして何か辛辣な批評っぽいですよね。

みんな気持ちよくなりたいですよね。

いますぐしあわせになりたいですよね。

すぐしあわせになれない記事なんて

「要らない!」

「さようなら!」

ですよね?

実際、僕も派遣のバイトなんかやってますが、そうしますと、正直、フーゾクでも出会い系でも、知らない人とでもとりあえずしあわせになりたい!とかあるいは気持ちよくなりたい!みたいな方向へ気持ちが傾くことはあるんですね。

麻薬でつかまる人や、不倫で騒がれる人も増えてますよね。

それだけしあわせ感の不足に悩む個人は多いわけです。

ブログやYoutubeを含むSNS系の自己表現に参入する人の数はどうやら増えているようです。

LINEのタイムラインもフォロー、フォロワー制が導入され、LINEブログでやってたんとちゃうか、って感じのルックスそこそこいいキラキラ女子の投稿がタイムラインにあふれかえるようになりました(設定によって入ってこないようにもできるのでしょうが)

ここで考えるべきは、即時性満足ということです。

即時性満足がいけないといってるわけじゃないんです。

即時性満足はある意味偉大です。

Tiktokでとりあえず太ももが見れるとか、五分で三回笑えるというようなことに救われる場合も確かにあるのです。

接客業なんかは即時性の満足を満たすのに失敗したら次はないというケースもあります。

人々のかなりがスマホを持ち、何らかのSNSをやってる人は増加の一途をたどってるようです(Twitterで痛い目に遭って辞めたとか、フェイスブックは広告にウンザリして辞めたみたいなはなしも聞きますが)

ところが、この参入者が増えるSNSもどちらかといえば即時性満足の追及を煽ってしまう側面が大きいような気がします。

それは、ここまで言えばわかりそうですが、やっぱり「いいね」や「スキ」文化によるものだと思います。

いや、僕も「いいね」や「スキ」は無論ありがたいんです。

それに救われることは無論あるんです。

ただ、「いいね」的な世界って、やっぱり即時満足主流の世界だと思うんです。

「いいね」を押すという行為は多く即時満足は確かにありましたっていうことだと思います。

いや、何度もいいますが、即時満足はある意味偉大なのです。

即時満足は低劣だと主張したいわけでは必ずしもないのです。

ただ、SNSはひょっとすると、提供する側にも受け取る側にも即時満足により走らせる部分があるのです。

もちろんもともと即時満足を前提としてるコンテンツもあります。

お笑いとかは、その場ですぐ笑ってもらえなければ失敗でしょうし、水着のグラビアもその場ですぐいいと思ってもらえなければ失敗でしょう。

ただ、何か即時満足をもたらさないものは人を幸せにすることはないと本気で信じてるような意見にもたまに出っくわすのでこんなことを考えた次第です。

「いいね」や「スキ」は多く即時満足の指標です。

即時満足をもたらすものは無論それなりの価値があると思います。

しかし即時満足が人生のしあわせのすべてではないと思います。

困窮するほど人は即時満足に走りがちです。

でもSNSのコンテンツの閲覧にそこそこの満足があるなら、それほど困窮してないとも考えられます。

ホントに困窮してれば、SNSのコンテンツにつき合う余裕はないと思われます。

ホントに人が困窮すれば、「かなり落ちる売女でもいいから、とにかく…」とか考えたり、手に届くところに麻薬とかがあれば手を出してしまうかもしれません。

少なくとも甘いものとかに慰めを求めるかもしれません(お酒の場合もあるでしょう)

いや、いままでの言い方は大きな語弊を生むでしょう。

「いいね」や「スキ」を沢山もらってる投稿の中にも後世に残せるほど素晴らしいものだってかなりあります。

即時満足ばかりを主眼に置いたものではなくとも「いいね」や「スキ」が沢山つくことはあります。

もちろん即時満足がつねに低劣というわけではありません。

お笑いから、国際映画賞を受賞する人になったたけしと、お笑いに終生徹した志村けんで志村けんのほうが価値がないという人は志村さんの全盛期を知ってる人には少ないでしょう。

即時満足にも価値はあるのです。

ただ、SNSの「いいね」というループのなかにいる個人は、即時満足性をめぐる悩みから解放されないのではないかと思う時もあります。

即時満足を多くの人には与えられないというのは、誰もしあわせにできないというのと同義ではありませんし、即時満足のないものは誰もしあわせにしないというわけでもないのです。

その場の即時「快」こそが唯一の正義だったら、お笑いタレントと胸の谷間で「いいね」をかっさらえるキラキラ女子こそが唯一価値ある人になってしまいます。

お笑いタレントとキラキラ女子がショーもない人たちだといいたいのではなく、

ただSNSにおける「いいね」がより人々を即時満足のあるものこそが価値ありと思わせたりして、みんなが即時満足のあるもののみを「是」とする社会になって「いいね」数みたいのがその価値指標になったら嫌だなと思ってこんな文を書きました。

即時満足は無論大事です。

それを軽んじてるわけじゃありません。

困窮してるほどより強い即時満足を求めます。

それがSNSの閲覧やご褒美プリンとかでどうにかなってるうちはまだ重症でないのかもしれません。

プリンとかじゃムリ、SNSウザイだけ、ってなったら黄色信号かもしれません。

「いいね」数みたいな満足の(しばし即時満足の)指標がある中で、人が短期的には満足が薄いもの、つまり即時満足を超えたものをひとつも持てなくなったら危機的かもしれません。

無論、本当に危機的状況にある人は即時満足こそが重要なこともあるのでその場合はこの限りではありません。


(あとがき)
じつはこの投稿の数時間前にnoteでひとつつぶやきを投稿してまして、SNSライフも虚しくなることがあります。
適度な満足があるものって良循環することが多いと思いますけど、虚しくなるっていうことは壁にぶちあたってるってことですよね。
で、そこで考えたのはSNSの「いいね」をめぐって人がより即時満足のとりこになって、それをもたらすもののみが価値あるものと考えるようになるからじゃないかと思ってこの文を書きました。
その場で満足を与えるもののみが人をしあわせにするわけじゃない、そんな思いがこの文を書かせました。
まぁ、でもホントに困窮してれば、なりふり構わず即時満足に走るかもしれません。
とりあえず笑えるもの
とりあえずおいしいもの
とりあえずおっぱい
とりあえず「いいね」
それもわかるし、それこそが重要なこともあります。
でもその一方で即時満足を超えた何かが必要な場合もありますよね。
昨日の午前中まではSNS辞めて生きるみたいなこと考えてたんですけど、一応まだ書くことはありそうだ、そんな気がしています。
昨日は「いいね」(スキ)に救われたのは確かなんですけど、でもみんな即時満足ばかりを追いかけて、即時満足のあるもののみを価値ありと考えがちなのかなって気がします。
即時満足ももちろん大事ですけどね。

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