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ノータイトルvol.001(カオスと作品作りのあいだで)

Princeというミュージシャンの"The Ballad of Dorothy Parker"という曲が頭の中で鳴っている。

シングルカットされた曲ではなく、地味な曲で、それだけ取り出して聴いてもどうってことない曲なのだが、アルバムの中の一曲として聴くとあたまに残る。そんな曲が多くの人にはあるもんじゃないかと思う。

さざなみや小鳥のさえずり、小川のせせらぎといった自然音も文明生活に疲れた人への癒しとして人気があるそうだが、音楽は人間が秩序立てたものだ。


秩序?
ジャズやヒップホップは既存の秩序を壊したんだよ。

いや、そんな屁理屈みたいなはなしはここではちょっと置いといといて。
Mozart(モーツァルト)の"Tuekish March"(トルコ行進曲)は、どうしたってひとつの秩序じゃないか。



音楽は、これは個人的な意見だが、あるひとつの簡便な秩序である。
複数の楽章からなる交響曲とかを除けば、とくにポピュラーはひとつの曲が3~5分で完結する。



僕たち人間という存在は本来カオス(混沌)である。
それもしばし自閉的なカオスである。
ことばや音楽、その他様々な文化、文明装置のちからを借りてはじめて、部分的にせよ、この自閉のカオスの外に出られるのだ。


ぼくたち人間がいかに存在的にカオスであるかの検証は簡単なことだ。
だいたい、わたしたち人間がいかに平静カオスであるかは、わたしたちが、いかに簡単に他の人の言動などに簡単に腹を立てたり失望したりするかをみればわかる。

わたしたちは他者に勝手な期待というシナリオをつくりあげる。
しかし、他者はその期待通りには動かない。
他者は他者で、懸命にその人のカオスを生きている。
わたしたちは他者のそのわたしたちが勝手に抱く期待とは大きく矛盾する衝動的なカオスのままに動くその様に唖然とする。

人と人のふれあいは無論よろこびをもたらすことも多いが、この自分のあまりに自分に都合のいい勝手な期待と、それを裏切る相手のむきだしのカオスとのズレにひとは次第に疲弊する。

音楽ははなしがはやい。

秩序であり、カオスであり、動であり、破壊であり、過剰であり、耽美であり、4分くらいの楽曲にそれらが全部つまっている。




では、文章(ことば)はどうだろう?

俳句や短歌、短めの詩などをのぞけば、ことば(文章)は音楽ほど簡潔ではない。

noteに並んでるようなコンテンツをべつにすれば、ことばの世界は10分未満で解決したりはしない。

音楽ほどはなしがはやくないのだ。

わたしたちの多くは、3分からせいぜい5分で終わるコンテンツに慣れすぎている。


ドストエフスキーの「地下室の手記」は、小説としてはそんなに長い方ではないかもしれないが、現代の3分から5分で明快な解決があるコンテンツに慣れてるひとには、それでも長く感じられるだろう。


自分は、この本を20代のとき1度、40代(後半)のとき1度読んだ。


複雑な自意識をもつ小役人は、その職を辞して地下室のようなところに閉じこもる。
前半は、その鬱屈したウジウジした自意識が独白体で語られる。

後半になるとその元小役人はそとへ出ていく、あるいは外へでたことの回想につながる。
小役人は、友だちともいいがたい筋の送別会のようなものに、ひねこびた複雑な自意識からみずから挙手して出席し、そこでさんざんな目に遭う。
そのあと売春宿に流れ着き、そこでも売女とさらに複雑な悶着が不機嫌に語られる。

これは、壮大ではなかったとしても、3分から5分のコンテンツに慣れてる人にはかなり長いスケッチだろう。

文明社会が産む引きこもりの、ある種の(特殊な)原型のひとつともいえるだろう。

もちろんそこに幾多の文明社会批判も含んでいる。

その作品は、ひとつの秩序でもあるが、またひとつのとぐろを巻いたカオスでもあるといえる。

20代の頃引きこもりだったわたしは、この作品が自分にピッタリそうな気がして手を伸ばしたが、当時はチンプンカンプンだった。
40をすぎて読み直すと、この複雑な自意識とそれが批判するものも、自分なりに整理がつく。



さて、いままではなしたものは、3分から5分でおわるようなものにせよ、最低で消化に5~6時間はかかるものにせよ、作品という秩序だった世界のはなしだった。

では、わたしたちの実人生はどうだろう?

わたしたちの実人生は、これは絶望的なカオスでなかろうか。

誰かが誰かに「好きです」という意思表示をしたとしよう。

よほど幸福な結末をのぞけば、そこから秩序が形成されるより、むしろ複雑なカオスへなだれこんでいく。

わたしたちが誰かにLINEを打ったとしよう。

10分後にはもうカオスの中にいたりしないだろうか。

わたしたちに、カオス的ではない明快な解決などがあったのはおそらく受験期が最初で最後だ。

しかし晴れてキャンパスに迎え入れられた人も3年も経てば、就活が待っている。
バブルのころ(まで)は就職にプラスのイメージをもってる人も多かった。
しかし経済がこれ以上は伸びないというフェイズにいる今日、なんで受験とかに頑張ったおれらが、満員電車にゆられて、企業なんぞにこき使われなきゃならんのや、という矛盾をかかえたまま就職していく。

就職してみて意外にたのしい毎日が送れてるひともいれば、「ああ、もうやじゃ」という人いるだろう。

多くの場合、そこから混沌へなだれこんでいく。

ながく大きな混沌へ押し流されていく。

その混沌は「地下室の手記」に勝るとも劣らないことが多く、あるいはそれより痛々しいケースだっていくらでもあるのだが、刑務所にはまだ入っていないとか、病院で寝たきりで管でつながれてるわけでもないという事実に慰めを見いだしたりすることすらあるかもしれない。

そこでぼくたちは「作品をつくろう」などと考えたりする。

作品はひとつの秩序である。

作品作りは、やりきれない人生カオスへのひとつの解決策ともいえる。

ガンプラがもし自分の思う通りに仕上がれば、そこには何がしの満足がある。

ぼくは音楽をつくりたかった。

ここでこの文の1行目のPrinceの"The Ballad of Dorothy Parker"のはなしに戻るが、じつはこの曲Princeというアーティストの完全な独演である。
歌を含むすべての演奏はPrinceが全部ひとりでやっている。
Princeはもともと、ギターも鍵盤もドラムもベースもぜんぶ演奏できるひとで、この曲が収録されてる前のアルバムまではThe Revolutionというバンドを率いていたのだが、この曲が収録されてるアルバムでそのバンドを解散させた。
マルチに全部できるというと、どれもほどほどなんでしょ?と思うだろうが、ギターひとつでもかなりなもんで、15歳の時そのPrinceの"When Doves Cry"という曲のイントロのギターを初めて聴いたときには脳みそかち割られるような衝撃をうけた。ギターだけでも十分生活が成り立ちそうである。

職業ミュージシャンを諦めてかなりの歳月が経つが、高校生のころ何気に聴き流した"The Ballad of Dorothy Parker"がいまあたまの中を流れて、この曲を含むアルバム全体がほぼPrinceの独演なのだと考えると、改めて愕然としてしまう。若い頃は「がんばればできるよ」などと考えていたのだ。

そこで、いまは文など書いているのだが、これもさきほどはなした、元祖引きこもり文学ともいえそうなドストエフスキーの「地下室の手記」を思い返して、文章という営為もそんなにラクなものではないのだという見通しに軽く脱力する。

投稿ボタンをおせば、人気のある人もない人も、どうしたってカオスの拡大に一役買ってしまう。
わたしたちの多くは、他者のカオスの拡大に一役買ってしまえば、どちらかといえば申し訳ないと思うだろう(でも、最初は「なんでそれ、オレが悪いの?意味わかんない!」という反応も多いだろう)
でも、それを気に病んでばかりいたら、自身の生存の否定につながりかねないし一歩も前に進めない。

Princeもドストエフスキーも、そんなに円満な対人空間のなかに身を置いたわけではなかった。

むしろ、そこから生じるカオスに苦しんでいた。

かれらは作品作りと向き合うしかなかった。

自分も、実人生の怒涛のような恐ろしいカオスに立ち向かっていくために、作品をつくったり、文を書いたりしているのかもしれない。


(あとがき)
テーマも主旨も解決もない混沌とした文で、note向きではないかなという気がしたんですが、たまには、noteというプラットフォームにはピッタリあわないようなものも書きたくなるんです。
プラットフォームに合わせることは今回重視しませんでした。

(製作データー)
書き始め 2020年7月14日6時32分
投稿         15時58分 

(誤記訂正とお詫び)
すみません、文中でドストエフスキー「地下室の手記」を「地下生活者の手記」と表記してしまい、意味は通じると思うんですが、ビミョーに主語が変わってしまいますので正しい表記に訂正します。
因みにわたしが読んだのは、新潮文庫版(江川 卓訳)で、平成六年に版を重ねたものです。
今だと、同書も光文社の古典新訳とか色々な選択肢があると思います。

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