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ダンボールにくるまって寝てる人はこんなに増えてたんだ(深夜に某地下街を久しぶりに歩いて目に入った戦慄の光景をめぐるあれこれ)

派遣のバイトが夜遅く終わって、休憩室で自販機のカップ麺をすする。
日曜日は終バスが早いのでいつものルートからは帰れない。別ルートも事故で全線不通という情報を仕入れたので、さらに別のいつもは利用しないルートで帰ることにした。
電車の椅子に腰かけると足の親指の関節が痛む。
聞くところによると、これは痛風の初期症状だそうだ。
ストレス過多が原因のようで、ストレスが許容値内に収まれば、わたしの場合は症状がなくなる。
最近ストレスと疲労過多なのかもしれない。
いやいや、そんなはなしはどうでもいいんです。
滅多に利用しない遠回りなルートで地下鉄に乗り換えるために某地下道を夜かなり遅い時間にほんとに久しぶりに歩いたんです。
地下道に足を踏み入れると、
うぉ、何だこれは…
ダンボールにくるまって寝てる人の多いこと…
この地下道は、そろそろ五十も近いわたしがまだ学生だったころから、ルンペンさんの棲み処で有名なところのひとつだったんです。
でも大学生の時分にそこを通ったとき見たのはほんの数人でしたよ。
しかし、あれから三十年近く経った今日、
うわっ、こんなに増えてたんだって、
いやいやいや、いるいるいる…
パット見ですけど、五十をすぎた感じのだ男性ばっか。いわゆる乞食とは別のホームレスという存在が(乞食とホームレスにそんな厳密な区別なんかはないのでしょうが)認識されたのは随分前でしょうか…
個人的なはなしになりますけど、大学生だったころに好んでいった大きめの公園に、三十すぎてから久しぶりに行ってみたんですね。で、その公園を歩いていると、奥の方にテントがいくつか張ってあったんです。大学生の時分にいったときはテントなんかなかったんです。
テントの中で暮らすより他ない人々のはなしってのはそれより前から聴いてたんですけど、それがこれか…って思いました。
その少し後に湯浅誠さん達が派遣村みたいな活動を始めて、随分感心な人もいるもんだなぁ、と思いつつ、収入的には当時すでにヤバかったんですけど、でもまだ三十代だったんで、将来ミュージシャンになって印税生活するぜ!なんて、今考えてみればアホなこと考えて、収入は当時低かったにもかかわらず、ポケットに100円しか入ってない人たちのことは、まだ、やや他人事だったんです。
しかし、今、派遣バイトみたいな身分になって、どうにか先日昨年度分の国保は払い終えたけど、しかしまだ、銀行のカードローンの借残高はほとんど減らないみたいな油汗かきかきの状況になりますと、ダンボールにくるまってる人たちの光景も、それが彼岸の火事だという自信はなくなってきました。


パッと見、男性ばかりでした。
きっと、何らかの事情で所帯は持てなかった(持たなかった)か、持ってたけど離散してしまったのかもしれません。
パッと見ですが女性はいないようでした。
しかし女性ならばこういった困窮と無縁なのかというと、そうとも言いにくいのかもしれません。
これは週刊誌で知ったのですが、80-50問題というのがあって、独身の50代になる娘と80代の母親が二人暮らしで苦しいことになってるという、多分多くの人がご存知のあれです。
何となくですが、男も女も、結婚しない、できない人が増えそうな予感があります(わたしもしてないし、バツイチですらありません)というよりそうなのでしょう。
結婚してなくても、金がたんまりあって自由恋愛を謳歌してるとかならまた別ですが、そうではない人は増えそうです。
それは行政的に解決できる問題ではないのかもしれませんが、しかし、そういう人たちが50代に突入しますと、それ以降はどうなるのでしょう。

これは震災以降の個人的なことなんですが、たまにですが、個人が個人として個人的に勝ちを収めることをもって終わりとしてよいのかといった疑問にとりつかれることもあります。もちろんその反動で、社会なんかとは簡単に融和しない個人主義者でいたいみたいな気持ちに傾くこともあります。
べつに個人が個人として個人的に勝ちを収めるのは今日でも悪いことではおそらくないでしょう。多額の納税は成功者以外には不可能です。わたしは現在派遣労働者になってしまい、恥ずかしいはなしですが国民年金は免除してもらってます(それ相応の収入に恵まれれば、もちろん後納を考えてます)つまり個人が個人として勝つことに無頓着になってしまいますと、場合によっては種々の金を納められないどころか、生活保護を申請するような方へ流れかねません(もちろん、それなりに頑張ったけど運に恵まれず、生活保護のお世話になってるケースも多いでしょう)しかし生活保護は申し訳ないからという理由だけで地下道でダンボールにくるまって生活することを選べるでしょうか?

こんな何か、いかにも良心家ぶってみせたところで、ぼくは湯浅誠さんみたいに活動家でも行動家でもないため結局なにもやらないのかもしれません。
結局、僕はもしかすると、週刊誌で80-50問題を知った時と似たような驚きをもって当日とせいぜいその翌日どまりの一時的興奮を語ってるだけなのかもしれません。三日経てば全然違うことに関心が移ってるのかもしれません。
それにダンボールにくるまってる人たちの肩なんかを僕みたいなやつが気安くたたけば「失せろ!」と穢らわしい連中を追っ払うみたく、手で払われるのがオチでしょう。
そういう人たちがそこにたどり着くまでには、思い出したくもない複雑なことがいくつも重なってるのかもしれません。
僕は、ホームレスの人を具体的に直接的にどうにかする活動家にはなれそうもない。
ホームレスの人たちに必要なのは何だろう?
壁で仕切られた一人生活用の個室だろうか?
しかし、そんなところでたった一人きりの生活をするために一般労働市場で週30~40時間働くことを50過ぎてやりたくなるだろうか?部屋のなかで映画のDVDを観るのが大好きとかならはなしはまた別だが…
かといって、シェアハウスみたいな共同生活もそういった人には苦痛かもしれない。それらは地下道でダンボールにくるまる生活よりどれほどマシか、あまり見当がつかない。

僕がいま受験生だったら、社会科学系の学部か福祉かリハビリ系の学部を目指すかもしれない。昔ぼくは経済学部へ入ったが(途中でこころを病んでしまい除籍になりました)とくに考えもなくモラトリアムが欲しっかっただけだから学部なんか何でもよかった。当時の日本は曲がりなりにも経済大国だった。いま既存の経済学をもう一度学び直したいという気持ちは正直そんなにない。だって、そんなのを修めた人は日本に相当いるハズなのに、ダンボールにくるまってる人の増加になにもできないし、その他様々な問題、純粋に経済の問題に限定してみても相当な無力を露呈しているではないか。
しかし、だからといって社会科学がどうでもいいということにはならないだろう。
ほんとうは湯浅さんたちみたいな活動家が一番純粋で具体的なのかもしれないが、学問的考察は一切いらないということにはならないだろう。

それにしても、ダンボールにくるまって生活してる人がこんなに増えてるなんて…


(あとがき)バイトが終わって、アクシデントで普段はまず通らないルートで帰ったおかげで見た戦慄の光景が忘れがたく、また忘れないうちに記事にしようと思いました。週刊誌で80-50問題とかのことを知ってそのときは衝撃を受けても三日も経つとすっかり忘れていたりするもんです。
この記事はけっきょく備忘録のひとつなのかもしれません。またある出来事をめぐるわたしの頭の中で起こったあれこれにすぎないのかもしれません。備忘録にすぎないのであれば、ホームレスの救済を実際にやられているかたが書かれた記事の1000分の1の価値もないのは明白ですが、自分がそれほどまでに忘れっぽいのであれば尚更備忘録は必要でしょう。
わたしがたまたま見た光景も居間でテレビカメラ経由でみたのであれば、殺人事件が起こった後の警察の現場検証の様子を眺めてるのとおんなじ程度のしらけた感じしか受けなかったかもしれません。
しかし実際にしかもたまたま通りがかったところで偶然にみてしまうと衝撃もひとしおです。それをうまくつたえるボキャに乏しいのが歯がゆいですが、しかし、こういった問題はどんどん他人事ではなくなってくのかもしれません。

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