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君は商業的ニーズを満たせるか?


いきなり上から目線のメッセージぽいっタイトルを掲げてしまいましたが、これは自分への問いも含んでいると解釈して下さい。
私は昨年会社を辞めてしまい、一般労働の時間は減らして稼ぎの少ない人として家族の顰蹙を買っている(会社時代も全然稼ぐ人ではなかったのだが)それは文筆で芽を出したいと思ったからであるが、今まで稼いだ額は、某電子書籍アプリのレビューアフェリエイトで書いたレビューの現金換算三十いくらにとどまり、他には昔、自費出版で一冊本を出して、これが140万くらいかかったので(10年以上前で紙の本です)圧倒的に赤字であり、内縁の妻の衣類をこっそり質入れしていた太宰治ほどでは全然ないが、家の中で多少バツの悪い立場になっており苦しくなっている。
一般労働をもっと増やそうか……いや、それは危険ではないか……

それはさておき、私の文章は少なくとも今日現在までいわゆる商業的ニーズを満たしてなかったのだ。
今はまだ修業期間だから……
そんなにすぐ結果はでないよ……
事実ではあるが、言い訳ととられてもおかしくないセリフが頭をよぎる……
書きたいものを書けばいいんだよ……
でもそれで商業ニーズを満たせるか?
ドストエフスキーの「地下生活者の手記」は地下室みたいなところに閉じこもった元役人の内面葛藤告白であるが、これは確かに書きたいものを書いたのかもしれない。
しかし書きたいものを書いて商業ニーズを満たすのは一般には難しい。

商業的ニーズについて考えさせられることが最近2.3あった。


ひとつ目だが、あるnoteのアカウントを読んでいて、僕より全然若いのに、言葉使いが秀逸で、文章力のあるアカウントに出会った。
「文章力みたいのは間違いなく自分よりある」と思って、若い才能に正直焦りを感じたのだ。しかしただ、そこそこの数の記事を読んでみると、旦那さんとそのあいだに生まれたお子さんや、親戚のことなど身近なことばかりから題材が選ばれている。文章なんて書ける範囲内のことを書くしかないのだが、ただひとつ、無名の人が、家族や親戚、あるいは自身の職場のことばかり書いてれば、商業ニーズからは遠いところにあるかもしれない。もちろんマンガ「ちびまる子ちゃん」みたいに身近な題材から構成した作品でずーっと売れ続けるものもあるだろうし、そもそもそのアカウントの方は商業ニーズなんかは全く念頭にないのかもしれない。商業ニーズを満たしてなければ価値がないなんていうつもりはもちろんない。日常の身近な気づきを語ってるそのアカウントは秀逸な透明感とでもいうものが感じられて、個人的には素敵だと思った。ただ、商業ニーズみたいなところからは遠いところにあるように思われた。

ふたつ目に、これと反対のことを書くが、先日コラム欄をスクロールしていると、林真理子と市川海老蔵の雑誌の対談……噛み合わないハズしている対談について語られてる記事にふたつ出会った。リンクは貼らないが、対談の模様をかいつまんで説明すると、ストイックな生活を追求している海老蔵に、林真理子は「もっと遊べ」と諭し、どこまでも会話が平行線になってるというものだ。
商業雑誌の対談は中身の薄いものでも商売として成立するものが多い。noteの無料記事のほうがよっぽど手間ひまかけて作られてるものもある。
しかし林真理子と市川海老蔵の対談となれば内容が多少お粗末なものであっても商業的ニーズはやっぱり何倍もある。「どれどれ見てみようかな」という人が多いからである。著名なお二方の対談は、仕事としては大したものではないかもしれないが、商業ニーズは高い。お二方ともそれまでにそれぞれの場所でそれ相応のものを築き上げて今日がある。
噛み合わない対談はしかし、それぞれの立場や観点の違いが明確になる。
海老蔵はストイックに生きざるを得ない状況にあり、林真理子はスキャンダル誌を賑わせてた頃の海老蔵が好きで「もっと遊べ」と諭す。
しかし対談みたいなものは、あまりに不愉快でなければ噛み合わないくらいが面白いこともなくはないし、意気投合の対談とかは読んでる方にしてみれば「ごちそうさま」になってしまい芸がないこともある。
いずれにせよしかしそれは商業ニーズは満たしているといえるだろう。

商業ニーズを満たしていれば、価値のない下らない対談でもよいのか?
そうは言わない。
ただすべての人があまりに高尚な世界を目指すあまり、水があるのに売らない人、水が欲しいのにそれはお下劣だからと我慢する人々、または、水が欲しいのに金がない人という今日の社会状況はどうなんだろう……

最後に、商業ニーズ満たすということについて、今考えたことを記して終わりにしたい。
海老蔵のストイックなブログは今日のご時世ではお下劣な商業雑誌より何倍も影響力があり、本人もそのことを自覚している。
しかし、ブログは広告を貼らないとそれだけでは直接の収益にはならないことも多い。
海老蔵は収入の心配ゼロかもしれないが、わたしたちの多くはどうだろう?

雑誌に載ってるコラム記事も、雑誌から切り離して単体で勝負すると俄然分が悪い。
しかし雑誌に載って他のものと一緒くたになると金が支払われる。
ブログという孤城で勝負して圧倒的影響力を誇れるのは海老蔵とか限られた人だろう。
「ONE PIECE」というマンガは誰でも知っているだろうが、元々というか今も少年ジャンプという雑誌に載ってる作品で、読者は「ONE PIECE」以外にも色々読める。
つまり「ONE PIECE」ですらそこではワン・オブ・ゼムでオンリーワンではない。
オンリーワンという孤城スタートだったら、さしもの「ONE PIECE」も売れるのにもっと時間がかかったろう。
他のマンガも読めますよという土壌で育っていったのだ。
こういう構造について考えるのも、商業ニーズに対するひとつのアプローチだろう。
自費出版で140万近い赤字を計上している私の語る商業ニーズのはなしなんて怪しいという人ももちろんいいるでしょうが、稼がない人として家の中で立場がまずくなってるわたしも必死なわけです。
君は商業的ニーズを満たせるか?……これはそのまま自分への問いでもあるわけです。
商業ニーズという既存の型を満たそうとすることからすべてが歪んでくるんだよという見方も可能でしょう。
でも、単なる日記を爽やかに書き綴ってるだけで、収益があがらなくても全然、あるいは大して困らない境遇の人が羨ましいと思うこともなくはないです。
そこに金銭的ジレンマゼロの爽やかで優しい生活をしている人々が羨ましく思うこともなくはないです。
あなたは商業的ニーズを満たせるか?
もしくはそこで苦闘する必要のないひとなのか?
ただ作品をつくっているだけで大丈夫なのか?

御一読ありがとうございました。

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