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「無冠」

無冠で終わる

それは一見悲しいことのようで、しかし冠を頂くよりもしかするとマシなこともあるかもしれない。

川端康成はノーベル文学賞を受賞した。

それは川端にとって光の部分だった。

川端はおそらくノーベル賞をもらうに値する人物だったとは思う。

しかしこれは憶測でしかないが、この光は川端を苦しめた。

大江健三郎のような作家は同じノーベル賞作家でも、たとえば政治悪の糾弾にベクトルが向く。

政治悪を真っ正面から糾弾するような自意識はしかし、良識派市民の絶大な支持を受けるだろうが、だがそれ故にある種の精神危機は免れていると思う。
なぜなら敵は外にあるからだ。

ところが川端はそうではなかった。

ノーベル賞というあまりにきらびやかな光をまとった川端は、賞をとった瞬間はともかく、その後はおそらくそんなに素晴らしいものではなかった。

川端は光を手に入れ、しかしそれによってそうではない部分が自身の中で際立ってしまったのではないか。

この種の繊細さを持つ作家がノーベルという冠の上に落ち着いて腰を下ろせるハズはあまりないと思う。

川端の文学は出生の傷を原点にしていたと思う。

そのことを直接書くことはあまりなかったにせよ、そこから生じる内面の醜い葛藤が逆にある種の耽美に結びついた。

しかしその暗い精神過程はノーベルの受賞などで癒えるものではなく、逆にそのあまりに眩しい光が暗い内面をあぶり出すことに作用してしまったのではないか。

川端の受賞によって、同じくノーベル受賞が噂されていた三島(由紀夫)は肩透かしを喰らってしまい、それが直接因ではなかったにせよその後に自刃してしまった。
川端もその一年後に自殺してしまった。

世俗の冠は、文学などという営みをする者にどう作用するのか。

村上春樹に瀬戸内寂聴

これといった冠を頂いていない大御所というのは結構いるものだ。

それらの人がこれから先、冠を頂くことになるのかそうでないのかについてまでは分からない。

しかし文学みたいな営為を生業とする者にとって、これといった冠を頂いてないということはむしろ幸福なことではないのか。
いや、わからないが…


(あとがき)
オレの人生にノーベルだのなんだのの栄誉なんて鼻から無縁だよ。
第一そんなの古臭いしさ、時代にあった生き方を模索したいねという人が多いかもしれません。
でも、そういうなんかいかにも新人類みたいな生き方が広がってるようで、実際に人々が何らかの栄誉を手に入れれば、あちこちで嫉妬がおこるんだから、新人類みたいなひとびと(Z世代っていうんですか、よく分からないですけど)だって依然ふるくさい心情に支配されてると思うんです。
頑張ってれば、認められたいし評価されたいのが心情かもしれません。
ただ、いわゆる栄誉が、その結果としての栄誉が文学者みたいな複雑な生業をしてる人だと自己に痛く作用することもあるのではないかというはなしです。
そしてそれは文学なんかをやってない人にもある程度共通することなのではないでしょうか。
冠を頂く人生、無冠の人生
どっちが素晴らしいでしょう。
今日はノーベル賞というある種の究極を手にすることになった川端康成の人生に思いを馳せました。
ノーベルを受賞した川端のことを書いておいて、タイトルが「無冠」というのはおかしいという人もいるかもしれませんが、僕のあたまのなかにあったのは「有冠」ではなく「無冠」でありそのことを考えていたのです。

それはさておき

御一読ありがとうございました。

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