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優しく易しい医療情報は、どうやってつくる?届ける?⑥ ほむほむ先生編・ナラティブと出典明記

2019年9月29日、東京・渋谷で「SNS発信の医師4人集結のトークイベント 知って、届けて、思い合う~やさしい医療がひらく未来~」レポート、ラストです!

Twitterで5万人を超えるフォロワーを誇るアレルギー専門医のほむほむ先生。ブログ「小児アレルギー科医の備忘録」や、Yahoo個人、雑誌連載も多数のまぎれもなく「医療情報発信者」のキーパーソンだ。私はイベント前までRTされてくるものを見たことがあるくらいで、めっちゃかわゆらしいお名前の、子どもたちに好かれるやさしいお医者さんというイメージを作っていただけでした…。

読む人に引き寄せた解説記事

ブログを見てもわかるように学術的な話題、研究の最前線の紹介などをわかりやすく、読む人に引き寄せて解説しておられるので、とても「やさしい」。ほむほむ先生のやさしさは易しさと優しさが並列していて、その中にはちょっと厳しく正しさがある。

もう時間が経ってしまったので臨場感がまったくなくてすみません…。でも、印象に残ったほむほむ先生の発言から。1つは「ナラティブ・ベースド・メディシン」、もうひとつは「出典の明記」だった。

医療者と患者が一緒に物語をつくること

「ナラティブ・ベースド・メディシン」は小学館のデジタル大辞泉によると

《「物語に基づく医療」の意》患者が語る病の体験を、医師が真摯に聞き、理解を深め、また対話を通して問題解決に向けた新しい物語を創り出すこと。医療の質の向上、治療の促進が期待される。科学的根拠に基づく医療(エビデンスベーストメディシン)を補完するものとして提唱されている。NBM。

とある。単純に言えば「医者が患者の話をよく聞くこと」「よく会話をすること」「わかりあうこと」になるかと思う。ほむほむ先生のブログを読んでても思うけれど、何に困っている人に向けてなのか、どんな例から考えられるのか…という「誰の話か」ということがわかりやすい。「これって私のこと?」という感覚を持ちやすいのだ。上記の引用にあるように、わかりあった先には「問題解決に向けた新しい物語を創り出すこと」が目指されるのだが、ほむほむ先生は「患者が腑に落ちること」だと言われた。納得する、と言われることもある。何のためにこの治療をするのか。どうしてこの薬が必要なのか。なぜあれやこれは避けるのか…。患者は病気にも心身についてもシロウトなので、懇切丁寧に説明してもらっても理解できないことがある。が、現在の短い診療時間や苦痛を抱えた状態では問い返すことも難しい。重病でなくても納得できないまま治療を続けて改善しなければ担当医師を、さらには医療そのものを疑い出す…ことになる。続ける気も失せていくことがある。

「腑に落とす」必要性と難しさ

最近、読み終えた宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』でも、がんが悪化していく宮野さんのことを磯野さんは「腑に落とすことがとても難しい現象」であると述べ(p102)、その「腑に落とす」という言葉をがんが悪化しつつある当事者の宮野さんがピックアップして「私は不幸なのか?」という問いを立てて「不運ではあるが、不幸ではない」という答えを導いた。そして「『腑に落とす』必要なんてあるのでしょうか」とさらに哲学者として問い続けていく。

哲学者である宮野さんが命ゆらぐ時間の中で問い続けることは、普段の病人や哲学者でない人には真似できようもないと思うけれども、ここのお二人の対話は私には心震えるものだった。それほどまでに、私たちはわかりたい。わからなくても、わかりたくなくても腑に落としたい。その「わかりやすさ」は物語としてつくると腑に入ってきやすいのだと思う。これは私自身も最近経験したことで「腑に落とす」ことは病気や苦痛を抱えた人には、本人の想像も絶するくらい大切なことである。だからこそ、ナラティブの巧みなトンデモやエセ、詐欺にするりと取り込まれるのだ。あるいは、異世界物語を始めてしまったりする。

医師もあなたと同じ人間ですという発信

そこで、エビデンスに基づいた…となると硬いけれど、エビデンスを上手に絡めた物語提供が必要だとほむほむ先生は話した。おもしろかったのは、Twitterでよく書いておられる私生活的な「つかれたー」とか「たっぷり寝ました」は、医師も人間だという物語を出すことで患者さんと人間同士なんですよということを感じてもらいたいとおっしゃっていたところ。たしかにセンセイと名の付く職業の人たちは、すごいんだけどえらいんだけど、同じ人間じゃないもんなあという感触を持ってしまうことが多い。でも、確かに人間らしいところが垣間見えると、話が通じるんじゃないかしらとほんわり思うことになるだろう。

やさしい医療情報は、きっとその物語が「私」や「知っている誰か」を想像しやすくすることが大事になってくる。大ヒットした曲の歌詞とか、映画の1シーンなど「あ、これすっごくわかる!」という人が多いと思う。共感や同情ではなくてそこに「私」や「誰か」が見えるからだろう。共振のようなものかもしれない。ただ、残念ながらこの技術はトンデモ医療情報の方がいまは優れているのだ。

とりま出典があるかどうか確かめる

トンデモ医療情報の見分け方としてほむほむ先生は「出典があるかどうかのチェック」を挙げられた。これは、論文を書いたりノンフィクションを書いたことのある人には耳タコのことかもしれない。私も論文や作家アシスタントをしていた時に引用文献、参考文献の取り扱いは体の芯まで叩き込まれた。が、それは前の時代の――紙の時代の話だ。インターネットが当たり前になり、Wikipediaが地位を固め、SNSで誰もが情報を飛ばしまくる前の時代。しかも、紙の書籍があてにならないということは、このイベントでも繰り返し語られたし、その後に起きた『イタリア人医師が発見した ガンの新しい治療法』での朝日新聞広告事件でいっそう明らかになった。

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幸い、この事件は専門家とSNSとウェブメディアなど、この時代ならではの新しい連携によってすばらしい成果を遂げることになった。ちょうどほむほむ先生がリテラシーの高い人を増やす、増えることで集団免疫のように予防していくと語った、まさにそのことが起きたのだ。

が。もしこの本が出版されていたら、出典として明記される文献となっていたかもしれない。それでも、まずは出典が明記されているかどうかはひとつの関所になりうるだろう。ネットでもリアルの会話でも「東大で取り入れられています」とか「学会で認められた治療法です」と言われたら「え、誰の?どこの?」と感じる耳が必要なのだと思う。それでもカール・レフラーみたいなのが出てくると頭を抱えてしまうだろうけれど。

ほむほむ先生の医療情報発信は臨床の延長(byヤンデル先生)

後半のセッションの時にほむほむ先生は、リアルで言えないことはネットでも言わないとまさにSNS発信の基本のキであり原則中の原則をきっぱりとおっしゃった。その上で自分のかかっているお医者さんと話しやすいかどうか、どうですか? と。話しやすい医師であること、そして話をしようとする患者であること。これは臨床でもネットの情報発信でも重要なことだ。易しく優しい医療情報の発信に対して、RTだけでなく質問をする、あるいはコメントするという双方向を患者や患者になり得る人たちは行うようにできるといいと思う。

患者としても変わっていきたい

私もこのイベントの後に、もっともっと担当してもらっている医師たちに話をすることにした。みっともなくても質問して、わかりきった答えでも繰り返し説明することを求めようと。できないことはできないとか、したくないという気持ちもぶつけた。以前、別の医師に「そんな説明じゃ何がどうなってるのか、わかんないよ」と言われた同じ症状を別の医師にやっぱり同じように説明してしまって困らせたけど、「ずっと痛みがとれないから混乱してるんです。先生が必要だと思うところを言っていただけたら、そこにフォーカスして説明します!」とか言っちゃったりした。がん再発疑いの検査結果を待つ1か月の間に診察のあった別の医師の前では、ぽろぽろ泣いてしまった(初回の時は一度も医療者の前で泣いたことがなかった)。これまで私がやってこなかったこと――症状は訴えても自分を語ることがなかったのだ(と思う)。起きていることは話すけど、自分を出さない。なのにわかって(治して)くれないという普通の人間関係なら絶対にめんどくさい奴じゃないか!

いずれの先生もいちいち細かいところは覚えていなくても、こういう患者なんだなという印象は持ってもらえたと思う。そして、それができるようになったのはこの「やさしい医療情報」イベントで医療者、医療メディアの人たちの物語を知ったし、自分の仕事で患者としてではなく医療者と対話をして医療者の物語を知ることができたからだと思う。

そして、自分が医療情報を発信する時は、もちろん出典を明記して誰かを想像しながら書くことにしたいと思った。不安を抱える誰かに「正しい情報」が届くよう、なるべく正確に。なるべくいろんな場所に。他の記事と重なるところがあっても、なるべくかさ増すように。   <終>

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