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春の金沢・大野町/沢野ひとし

 金沢の町に憧れたのは、室生犀星(むろうさいせい)の作品を読んでからである。十代も終わりの桜の咲く頃、初めて犀川の辺を歩いた。春霞の向こうに、医王山(いおうぜん・九三九m)の山が広がっていた。

 山名の由来は「薬草が多く、薬師如来(大医王仏)を祭ったことから」という説が多い。この山は、金沢出身の室生犀星や泉鏡花(いずみきょうか)の作品に多く書かれている。特に鏡花の、薬草を摘みに行って、摩訶不思議な少女に出会う幻想的な世界を描いた『薬草取』は、印象的である。


 十年ほど前に、浅野川沿いのブックカフェ「あうん堂」で、小さな個展を開いた。そこで何人かの地元の人と知り合いになり、その後、頻繁に行き来するようになった。

 新横浜から新幹線で米原まで行き、北陸本線に乗り換える。車窓から北陸の広々とした風景を眺めると、「もうすぐ金沢」と胸高まるものがあった。バッグの中には必ず犀星や鏡花、中野重治(なかのしげはる)らの文庫本が入っていた。

 東急ホテルが定宿であった。昔は北国(ほっこく)書林があった一帯を再開発した場所である。繁華街の香林坊におしゃれな紳士服の店があり、紺のセーターやマフラー、コートなどを買ったことがある。旅に出ると気が大きくなるのか、無駄な失費が増える。

 旅先での食べ歩きは好きではない。一度気に入った店を見つけると、その店に通い続ける。だが店主とは沈黙を保つ。うっかりすると延々と町の自慢話に付き合わされるはめになる。

ハクモクレン


 こうして四季折々の金沢を訪れてきたが、木蓮が咲き出す北陸の遅い春の頃が、特に好きである。長い冬から開放され、人々も朗らかで元気一杯な表情である。

 そんな季節に、金沢からバスで三十分ほど走って大野町に出かけた。
 小さな港町で、一昔前の風情を残した静かな佇まいに、体がしゃんとした。後に『しあわせのかおり』の映画のロケが行われた町と知る。

りんどう


 さらに驚いたのは、よく行く金沢市内の中華料理店のコックが、この映画に出演していたという。ただしフライパンを握り炒飯を作るシーンの手だけが写された。

 大野町からも医王山が毅然とどっしりと見える。山は眺めているだけでは損である。金沢に戻り、自分の足で登り、頂上から金沢の城下町を見下ろせば、そこには新たな思いが生まれる。


山


イラストレーター・沢野ひとしさんが、これまでの人生を振り返り、今、もう一度訪れたい町に思いを馳せるイラスト&エッセイです。再訪したり、妄想したり、食べたり、書いたり、恋したりしながら、ほぼ隔週水曜日に更新していきます。

文・イラスト:沢野ひとし(さわの ひとし)/名古屋市生まれ。イラストレーター。児童出版社勤務を経て独立。「本の雑誌」創刊時より表紙・本文イラストを担当する。第22回講談社出版文化賞さしえ賞受賞。著書に『山の時間』(白山書房)、『山の帰り道』『クロ日記』『北京食堂の夕暮れ』(本の雑誌社)、『人生のことはすべて山に学んだ』(海竜社)、『だんごむしのダディダンダン』(おのりえん/作・福音館書店)、『しいちゃん』(友部正人作・フェリシモ出版)、『中国銀河鉄道の旅』(本の雑誌社)、絵本「一郎君の写真 日章旗の持ち主をさがして」(木原育子/文・福音館書店)ほか多数。趣味は山とカントリー音楽と北京と部屋の片づけ。電子書籍『食べたり、書いたり、恋したり。』(世界文化社)も絶賛発売中。
Twitter:@sawanohitoshi