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語尾がばっかす/新井由木子

 あれは、まだうら若き20代だった頃のこと。実家の2階にある自室で眠っていたわたしは、玄関のドアが開閉する音で目を覚ましました。続けて密やかに階段を上ってくる気配。
 やがて音もなく部屋のドアが開き、そこに立っていたのは妹でした。その顔は踊り場の灯りを背景に完全な逆光となっており、表情を読み取ることができない不可解な雰囲気です。
 一体どうしたんだろうと布団の中で目を見開いているわたしに向かって、妹は静かな声で
こわかったばっかす
 とだけ呟くと、ドアを閉めました。後には再び暗闇になった部屋に、すっかり目の覚めたわたしだけが残されたのでした。

 こわかったばっかす。
 前半は「怖かった」であろうことは容易に想像できました。しかし後半の「ばっかす」は、わかりません。鹿児島県方面で聞かれる「ごわす」のような方言だと思うのが自然ですが、日々一緒に暮らしている妹にそのような訛(なまり)は、今朝まではありませんでした。

 なぜいきなり方言で話し始めたのか。その怖かった出来事と、いきなり訛ってしまったのには、なにか関連があるのではないか。
 そもそも、ばっかすと訛る方言は実在するのか。もしかして今のは、妹のようで妹ではないものなのではないか。
 いやいや、こんな深夜に帰ってきて「怖かった」とわざわざ報告にくるからには、相当にショッキングな出来事があったはず。もしかしたら、そのために心や脳に変調をきたし、訛ってしまったのかもしれない。ならば妹の部屋のドアを叩いて
「どうしたばっかす?」
 と、歩み寄るべきかと思いながらも踏ん切りが付かず、わたしは眠れない夜を過ごしたのでした。

 このように、無駄にインパクトのある意味のわからない言葉が邪魔をして、そのセンテンスが真に伝えようとすることに辿り着けないというのは、まれにあることです。

「ねえねえ新井さん、ショトホップって難しいのかな?」
 と、カフェ・コンバーション店主(以下コンバーション)が言ったことがありますが、これもそんな事例のひとつです。
 どのくらいの値段で買えるのか、自分のパソコンでも使えるのか、と続けて言うので、すぐに画像処理ソフトウェアの『フォトショップ』のことを言っているのだとわかりましたが、「ショトホップ」の語感があまりに良過ぎて、コンバーションの質問が全く頭に入ってきませんでした。
 ホップは三段跳びの一歩目を意味するところから跳躍を感じさせ、ショトの部分はスナップショットを連想させるので、跳ねながら写真を撮っている人物が浮かんできます。なんだか本来の名前より楽しそう。
「わたしってパソコン苦手だけど、ショトホップ使えるようになると思う?」
 コンバーションが重ねて尋ねてきましたが、そのことについてコンバーションのために真剣に考える気にはなりませんでした。

「わたしの心のことせんに触れる」
 と言ったのもコンバーションです。琴線のことを言っているとわかりましたが、ことせんと読むと、この言葉自体が持つ繊細さのレベルが、一気に落ちるように感じます。
 この時も「ことせん」に気を取られて、結局コンバーションの心が震えた出来事の話は、全然印象に残っていません。

 さて、「ばっかす」の種明かしですが、妹の友人宅の、普段はとても大人しいバッカスという犬が、その日集まった仲間のある人物に対してだけ、ものすごい剣幕で吠えたのだと、翌朝妹が語ってくれました。
 その有様が
「怖かったバッカス」
 だったそうなのでした。

 わたしも怖かったばっかす。

思いつき書店076文中


思いつき書店076写真01

言葉に関しては、とぼけたことを言うコンバーションですが、カフェ店主としては素晴らしい。こちらは「甘い」と「しょっぱい」を一度に味わえる『ほっとけーきランチプレート』です。

(了)

草加の、とあるおしゃれカフェの中の小さな書店「ペレカスブック」店主であり、イラストレーターでもある新井由木子さんが、関わるヒトや出来事と奮闘する日々を綴る連載です。毎週木曜日にお届けしています。

文・イラスト・写真:新井由木子(あらい ゆきこ)/東京都生まれ。イラストレーター・挿絵描き。埼玉県草加市にある書店「ペレカスブック」店主。挿絵や絵本の制作のかたわら書店を営む。著書に『誰かの見たもの 口伝怪奇譚』『おめでとうおばけ』(大日本図書)、『まんじゅうじいさん』(絵本塾出版)ほか。「この世はまだ たべたことのないものだらけ。東京に近い埼玉県の、とあるカフェの中にあるペレカスブックで、挿絵や絵本を作りながら本屋を営んでいます。生まれ故郷の式根島と、草加せんべいの町あたりを行き来しながら、食べること周りのことを書いてゆきます」

http://www.pelekasbook.com
Twitter:@pelekasbook