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存在していることへの違和感の現象学

ものごころついたときから、存在していることに違和感を覚える。それが意識され言語化され出したのは哲学を勉強しはじめたほんのついさいきんのことだ。だがハーモニーとして主題的に、あるいは、背景で、わたしの人生に響き続けている。

わたしは何らかの「存在違和(existential dysphoria)」にある。すなわち、

存在違和:現在の自己に割り当てられた存在論的地位とは異なる存在論的地位へのふさわしさの感覚(ontological identity:存在論的アイデンティティ)を持ち、自らの存在論的地位に違和感を覚える状態。

にある。ここで存在違和の定義はわたしによるものだ。

「存在していることの違和感」とは、いくつかの誤解を招きそうな表現だ。また、理解されがたい経験であることもたしかだ。以下、存在違和について説明し誤解を避け、理解を共有したい。

一点注意しておきたい。わたしと同じように存在することへの違和感を覚えているひとも、以下のわたしの説明とは異なる経験をしているかもしれない。それはそれでまちがいでもなんでもない。以下はわたしの存在違和であり、存在違和という経験のすべてではない。存在違和の経験はさらなるバリエーションに満ちているかもしれない。

存在違和は何ではないか

自責の念からではない:じぶんが引き起こしたよくない結果は、むろんないわけではないが、それらによって消えてしまいたいと思うわけではない。

死の欲求そのものではない存在していることの違和感であって、じぶんが存在しなくなる(哲学的に繊細なもの言いをすれば非存在者に移行すること。以下煩雑なので、存在者である/非存在者であるを、存在しない/するということばづかいでいく。適宜読み替えてほしい)ことが直接望まれているわけではない。とはいえ、存在違和の解消「方法」として選択肢のうちに可能性としてありうる。わたしは現在死を存在違和の解消手段として選ぶ動機はそれほどない。

不幸ではない:わたしは人生をおおいにたのしんでいる。存在していることに違和感をもちつつ。それは、パーティの後、仲間とはしゃぎながら、誰かの靴をまちがえて履いて帰ってしまったときの違和感に似ている。違和感はすべての経験を不幸にしない。わたしはたのしい。だが、違和感は違和感としてそこにある。

つねに主題的ではない:いついかなるときも存在違和が経験されるわけではない。存在違和はつねに主題的(意識のなかに浮かび上がり、わたしが気づいている状態)ではない。しかし、存在違和の経験はいついかなるときでも主題化されうる:パーティでたのしいとき;ひとりでくつろいでいるとき;親密なひとやひとびととともにいるとき;幸福なときと不幸なときとその中間のグラデーションのあいだ。

人生の意味の喪失ではない:じぶんの存在の痕跡が世界に刻まれることについて違和感はない。むしろわたしはそれを好む。わたしはわたしが行う行為に対して特定の意義を感じ、人生のプロジェクトに対しても過去と現在と未来において、意義を感じる。違和感と人生の意味の懐疑とは関連しないこともないかもしれないが、わたしにおいては独立である。

存在しないことが望まれているとは限らない:繰り返しになるが、違和感は存在していることにあり、直接存在しないことが望まれているわけではない。ここは微妙な話である。ふつう、存在していることの違和感は「存在していない=非存在」への望みとセットに考えられる。たとえば「消えてなくなりたい」とは「消える」ことが望まれている。だが、わたしはそうではない。非存在になりたいわけではなく「存在していること以外のあり方」に対する何らかのふさわしさを感じる。それを明確に言うことがいまできない。

存在違和の現象学的分析

わたしは現象学者をまだ自称できない(いつかしたいが)。自称できるほどに学的訓練や理解を経ていない。とはいえ、存在違和の経験の分析を現象学的アプローチからわたしが行うことは、この経験の他人への共有と分析に役立つ。理想を言えば、存在違和を覚える現象学者による分析だが、ないものはない。やってみよう(以下の分析のアプローチは、植村他(2017)とくに第一部の現象学的分析を参照した。また、現象学一般については、コイファー&チェメロ(2018)を参照した)。

といっても、前段の否定的な項目ですでにある程度の現象学的分析は行なわれている。以下ではもう少し抽象的な話をする。

わたしは、じぶんが存在している現在とじぶんが存在しているわけではない可能だった状態、そして可能な状態とを比較し、後者のじぶんが存在しているわけではない状態に安心感を覚える。

わたしの経験はここで、想像のうちで、過去と現在と未来においてじぶんが存在しているわけではない状況をめがける。ついで、現在の自己のあり方を自覚し、両者のどちらがじぶんにふさわしいのかを思考し、めがけられた状況と現在の自己の両方に対して、安心と違和の情動を抱き、価値づけを行う。

ここで、存在違和の経験の構造をこまかく分析するためには。すくなくとも次の経験の各部分を考察する必要があることがわかる。

・じぶん存在しているわけではない状態を想像するとはどんな経験なのか。
・存在している、という現在の経験を自覚するとはどんな経験なのか。
・じぶんが存在している経験の自覚と存在しているわけではない経験の想像とを、じぶんに対するふさわしさから比較するとはどんな経験なのか。
・じぶんが存在しているわけではない状態とじぶんが存在している状態へのなんらかの(情動的)価値づけを行うとはどんな経験なのか。

存在違和の現象学の問いとして上のものをあげうる。これらをそれぞれ分析することはわたしの興味を惹くこれからの課題となる。

上の課題のリストアップもたいへん興味深く、わたしはこれでいったん満足しているが、せっかく読んでもらったあなたにはもうひとつ足りないかもしれない。

違和感の現象学

べつのお土産を持って帰ってもらえるかもしれない。それは違和感の構造だ。以上から明らかにされるのは、違和の出現のための経験の構造だ。

ある自己に対する違和感を覚えるためには、わたしは、現在の自己の経験とは異なる自己の経験を志向し、それと現在の自己の経験とを比較することが必要となる。そして、現在の自己の経験と、現在の自己の経験と異なる自己の経験に対して異なる価値づけを行う。そして、しばしば一方がたほうよりもじぶんにふさわしい自己の経験だと判断する。

つまり、違和感の経験は、つねにわたしの、可能なわたしのあり方についての想像可能性と比較可能性に基礎づけられている

存在以外のあり方に向かって

もうひとつお土産を。わたしは存在している以外のわたしのあり方へのふさわしさの感覚を抱いている。それは一般的には「死者」という存在論的地位に集約されてしまうが、わたしは死者になりたくてしかたがないわけではない。

それ以外の存在論的地位はありえないのか。たとえば、虚構的キャラクタの存在論的地位は、ふつうの意味では存在していないが、特定のしかたで「ある」と言えそうだ。わたしの存在論的故郷は、いったいどこにあるのか? それは思いがけず、抽象的で経験とは関係のないような形而上学的な議論によってさらに分析されるのかもしれない

絶滅と存在違和

加えて、わたしの存在違和の経験は、わたしの多元宇宙的絶滅主義:「人類は、倫理的責務として、あらゆる宇宙たちの誕生を阻止し、あらゆる知的生命体の誕生を阻止するべきだ」の直観の源になっているのかもしれない。

本稿の議論を経て、わたしの妄想的直観はつぎのように表現できる。

すべての存在者の存在論的違和仮説:すべての存在者のふさわしいあり方は「存在していること」ではないのではないか?

多くのひとびとは、この世界が存在していることはそういうものだと考える。だが、この世界は存在しているというあり方がふさわしいのだろうか? この世界は存在している以外の存在論的地位であることがよりふさわしい可能性もある

すると、多元宇宙的絶滅主義はいまのところわたしの存在違和を世界に押しつけたもののようだ。わたしの直観を支える議論は手元にない。

べつの可能性がある。世界をよくするのは、世界を絶滅することではなく、世界の存在論的地位を変化させることはできないのだろうか? 意味のわからないことを言っていることはじぶんでもなんとなくわかるが、わたしはこのアイデアを発展させてみたいと思っている。とりあえずこれを「世界の存在論的変容の使命仮説」と呼んでおこう。

世界の存在論的変容の使命仮説:世界は現在存在しているという存在論的地位にある。だが、これは世界の存在論的地位として実はふさわしいものではなく、世界は存在論的に変容すべきである。

わたしはこの使命を真剣に信じ込んでいるわけではないが、しかし、ある程度関心がある。こう言い換えてみよう:世界は滅びるべきではない。だが、世界の存在は変容すべきなのだ。

おわりに

以上、存在違和についての否定的な特徴づけにはじまる現象学的分析を行った。存在違和についてのべつの分析を行うこともはじめていきたい。

存在していることへの違和感をそのままに語り出すことは難しい。そもそも、存在違和の経験は論理的にいっておかしなものかもしれない。

また、存在違和の経験は、下手をすれば成長過程のよけいな思考か、不幸の表現のひとつか、精神疾患の一症状として扱われるに終わるかもしれない。

実際に論理的に矛盾しているか、何らかのよけいな思考であるかどうかはここではひとまず重要ではない重要なのは、特定の経験が否定しがたくここにあり、それを共有可能なかたちで示しておくことにはさまざまな意義がありうるということだ。

実際に存在違和のさまざまなバリエーションを経験しているひととその周囲のひとにとっては、じぶんや知人の存在違和の経験を再考することにつながり、哲学者にとっては、興味深い経験として興味を惹き、そしてわたしにとっては、存在違和を語り出すことでじぶんの奇妙な経験を理解する手がかりをえる。

存在違和をめぐるさまざまな語りが生まれることで、さまざまなひとびとがそれぞれのお土産を持って帰れればいいと思う。

難波優輝(分析美学と批評)
Twitter:@deinotaton

引用例

難波優輝. 2020. 「存在していることへの違和感の現象学」Lichtung Criticism', <https://note.com/deinotaton/n/nfa4502c81ed7>.

参考文献

ステファン・コイファー、アントニー・チェメロ(2018)『現象学入門』(田中省吾・宮原克典訳)勁草書房.
植村玄輝・八重樫徹・吉川孝編著、富山豊・森功次著(2017)『ワードマップ現代現象学:経験から始める哲学入門』新曜社.
難波優輝. 2019. 「絶滅の倫理学」Lichtung Criticism’, <https://note.com/deinotaton/n/nd55ecbe15125>.

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