見出し画像

幽霊と隠喩:なぜ幽霊の実在を信じられないわたしは心霊スポットに行かないのか

実話怪談の中で、調子に乗った大学生が心霊スポットに行く。すると、だいたい呪われる。夏の心霊スポット特集番組を見ていたわたしたちは惰性でCMを眺めながら、昼ごはんの残りのしなびたポテトを口に運んでいる。

「心霊スポット行ってみたなった。今度行こや」
「いや、やめとこ。危ないで!」わたしは思わず大きな声をあげる。ポテトが手からこぼれた。「やって「出る」って報告されてんねんから!」
「何怖がっとん? てか自分幽霊おらん言ってなかった? おらんのやったら行っても大丈夫やん。「出る」っていうのも嘘やろ?」片眉を上げてストローに口をつけた。

「幽霊が(おそらく)いないと信じているのに、「出る」という報告を信じて、心霊スポットには行きたくない」というのは矛盾した主張だろうか? 「心霊スポットは(たんに物理的な立地のわるさ以上に)危険だ」と思っているなら「幽霊が実在してわたしたちに危害を加えたりする」と信じていることになるだろうか? これを「幽霊文のパラドクス(Paradox of Ghostic Statement)」と呼ぼう。

幽霊文のパラドクス
(1)幽霊 / 怪異の実在についてわたしは不可知であり、ふつうの意味では信じていない。
(2)実在しない対象を用いた文=幽霊文の主張をわたしは信じている。
(3)ふつうの意味で実在を信じていない対象を用いた幽霊文の主張をリアルに信じることは不合理である。

(1)わたしは幽霊を含め怪異はおそらく普通の物事(石や雷や)と同じ仕方では存在していないし、超自然的なものとして存在しているともあまり信じていない。

(2)だが、わたしは心霊スポットに行きたくない。たんに遠いとか、場所が物理的に危ないとかではなく「幽霊文が指摘する通りに危ない」と思うからだ。

ゆえに、(3)これは矛盾した態度だろうか? 

そうではない、ということを主張する。つまり、幽霊文のパラドクスは(1)や(2)を否定することなしに、(3)を否定することで解決できると主張する。

怪異の隠喩

わたしが主張するのは「怪異の隠喩主義(Kaii-metaphorism)」だ。

怪異の隠喩主義:幽霊を含め怪異を使った現実世界に関するひとの言及は、実在を問わない表象を使って現実の性質に言及している。「幽霊が出る場所」と言うとき、ひとは幽霊の存在に必ずしも依拠しておらず、実在しなかろうが、その主張は現実の性質に対する真性の主張となりうる。

〈あの心霊スポットに行くと呪われる〉という主張があるとしよう。これは、怪異の隠喩主義を採用すれば、怪異の実在を信じることなく独特な意味で真でありうる。〈あそこに行くと帰れなくなる〉〈この部屋に住むと呪われる〉などといった怪異を使った現実世界に関する人々の言及は〈怒った雲が雨を降らす〉〈このパソコンは昨日から機嫌が悪いから動かない〉と同様、現実のある性質に関する真性の主張でありうるとする立場だ(cf. Toon 2016; 草野 2018)。

では、先程の会話を続けよう。

「何怖がっとん? てか自分幽霊おらん言ってなかった? おらんのやったら行っても大丈夫やん」
「たしかに自分は幽霊を強く信じてへんけど、信じんでも〈あの心霊スポットに行くと呪われる〉という主張を信じられるねん。なんでか言うたら、この主張がやってるのは「心霊」とか「幽霊」とか、何かの表象(ざっくり言うたらイメージのことや)を使って「心霊スポットには独特の危なさがある」という現実世界の物事の性質について何か言っとる」

わたしは幽霊の実在には不可知であり、怪異コミットメントしていない。だが「ここは〈出る〉」「怨霊が自殺を誘うスポットだ」「この部屋に住むと呪われる」という主張を信じることは不合理ではない。なぜなら、これらは、現実世界の物事の現実の性質を隠喩的に言い当て(ようとし)ている真性の主張と信じられる場合があるからだ。とはいえ「隠喩的に言い当てる」とはどういうことだろうか?

幽霊は何の役に立つのか?

「でも、なんでわざわざ幽霊の表象を使うんや。そんな必要ないやん。やっぱり幽霊がほんまにおるから幽霊の表象を使って心霊スポットの話とかしとんちゅうん?

これに対してはこう答えられる。

「その質問に答えられるんが怪異の隠喩主義の魅力の一つで、幽霊がほんまに存在しとるかどうかはどうでもようて、「幽霊」という表象をうまく使うと、他ではよう言えん「心霊スポットの危なさ」が指摘できるんが確認できるんや

幽霊という表象を用いることで、たんに「ここに行くと何らかのいわく言い難い恐ろしい心的な幻覚のようなものが現れがち」とか「なぜか自殺者志願者を惹きつけいわく言い難い精神状態になるので危ない」とか「この部屋はなぜか住む者にいわく言い難い心的ストレスを与える」だとかと、くどくど述べるより、精度よく、ヴィヴィッドに特定の性質を指摘できる。「出る」のひとことで済むし、それでわたしたちはどのような意味での危なさがあるのかを理解できる。

これはちょうど隠喩の機能と同じだ。隠喩もまた「ジュリエット、君は薔薇だ!」と主張することで、ロミオがジュリエットをどんな風に想っているかが、他の言い方よりも一層判明に理解できる。くどくど「君はとても美しくて、というのもその気高く佇んでいる姿がまずよくて、でも少しトゲもあり……」と言わずに済むし、それ以上に多くの情報を伝達できる。また「君は百合のようだ!」と言えば全然別の性質をうまく指摘できる(cf. Grant 2011)。

「で、さらに続けると、怪異の隠喩主義に立つと、怪異の実在に立ち入らずに「よりふさわしい幽霊文」と「よりふさわしくない幽霊文」が判断できることがよう分かるんや
「なんで」
幽霊文は怪異の表象をうまく使って現実世界についてのリアルな性質についてうまく言えていれば、よりふさわしくなる。ちょうどロミオがジュリエットをうまく隠喩することでその気持ちを表現するように。幽霊文にも真偽と巧拙があることが、怪異なしで、怪異の表象を理解していれば判定できるんや

なので、幽霊、妖怪、オカルト的存在の実在を信じることなくそのフォークロア・ネットロアが埋め込まれた「幽霊文」の主張を信じて行為することはじつは不合理ではない。しかも、幽霊文は、それなしでは伝達できないようなこの現実世界についての何らかの情報をよりヴィヴィッドに伝達しうる。

以上で幽霊文のパラドクスは解決された。怪異の隠喩主義の魅力は、幽霊がほんとうにいるかどうか、その立場をつよく決めることなしに、怪異の表象を使った文、すなわち「幽霊文」の真偽を問うことができる点にあり、しかも、わたしたちの社会のなかで怪異の表象が果たしてきた認識的な役割についても言えるようになる。

想像力の資本論に向かって

わたしたちは幽霊という表象を言わば「想像力の資本」として用いてきた。

怪異がたくさんいる社会は、それだけ多くの現実の出来事についての言い方をストックしている社会だ。怪異の表象があるほど、わたしたちは怪異なしではうまく表現できないような現実世界の(もしかしたらまだ科学的には明らかになっていない)物事についてうまく文を作り、互いに伝達し合える。怪異はわたしたちの現実世界の把握に深く役立ってきたのだ(妖怪の意義については、根無(2019)を参照のこと)。

これからもたとえ幽霊が実在しないということが人々に受け入れられたとしても、幽霊という表象は用いられていくかもしれない。どのようにわたしたちが想像力の資本を用いているのか、用いていくのか、非常に魅力的なトピックだろう。民俗学研究、世間話研究へと美学から枠組みや議論を提供できるかもしれない(このトピックについては、大澤(2020)、柴田(2020)の発表に影響を受けた)。

参考文献

Grant, J. 2011. Metaphor and Criticism BSA Prize Essay, 2010. The British Journal of Aesthetics, 51(3), 237-257.

草野原々. 2018. 「虚構主義とお話 / Fictionalism and the Folk【Toon, Adam(2016)】」『水槽脳の栓を抜け』 <http://the-yog-yog.hatenablog.com/entry/2018/04/10/210033>. 2020/09/27最終閲覧。

根無一信. 2019. 「新しい民俗学のための妖怪弁神論––––妖怪の存在意義、そして伝承の可能性の条件に関する形而上学的考察––––」『フィルカル』4(4), 152-226.

大澤博隆. 2020. 「SFとイノベーション」『応用哲学会第12回年次研究大会シンポジウム「学問をSF(サイエンスフィクション)する」』

柴田勝家. 2020. 「信仰としてのSF〈虚構〉」『応用哲学会第12回年次研究大会シンポジウム「学問をSF(サイエンスフィクション)する」』

Toon, A. 2016. Fictionalism and the Folk. The Monist, 99(3), 280-295.

難波優輝(現代美学と批評)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?