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火の山十八 第二章 魔王と魔性の女 「少女が殺された時、記憶が空白だったなら」

 朝早くから、僕はテレビの前に釘付けになっていた。朝のワイドショーでは、どのチャンネルに変えても、少女の首切り事件で持ちきりだった。
 また、新たな首のない少女の死体が発見されたのだ。
 テレビカメラは、僕の見慣れた風景を舐めるように映し出す。僕のいつもの生活圏内の風景だ。
 マスターの喫茶店と、その近辺にある路地、裏通りなどが、次々に眼の中に飛びこんできた。犯人はまだ捕まっていないらしい。

 僕は大きな溜息をついた。
 この世界にいったい何が起こっているのだろう。
 今日も目覚めた時、僕のまわりの世界は昨日とはどこか違っていた。空気も光も、そして僕自身の体と心の粒子も。それは何の根拠もない、唯の予感に過ぎないけれど、僕は僕自身の世界に違和感を感じ始めていた。

 第一、僕の横には、ソーニャが寄り添うように寝ていたのだ。
 布団に残った二人分の温もりを後にして、僕は洗面所の前にたった。いつものように、一日分だけ髭が伸びていた。
 そうだ、 僕はこの世界に存在すること自体が、次第に息苦しくなっているのだ。

 マスターはどうしているのだろう?
 僕の脳裏に浮かんだのは、まずそのことだった。あれから暫く喫茶店には顔を出していないが、その間に殺人事件が起こったのだ。

 犯人はマスターではないかと、ふと思った。
 それはあまりにも唐突な考えだったが、僕の脳裏にその疑惑がこびりつき、どうしても離れることができなかった。
 そうだ、マスターの首切り地蔵の話と、今回の事件は妙に符合する。
 そして、僕は実際に夢を見たのだ。夢の中で、女達は次々と首を切られ、その首の血で川底は真っ赤に染まっていた。

 首のない二つの少女の死体。
 二人の少女には、何のつながりもないらしい。お金目当ての殺人でもなければ、怨恨でもない。動機が不明なだけに、犯人を特定するのが難しいらしい。
 通り魔殺人事件。だが、犯人は今もどこかで息を潜めているに違いない。
 計画的犯行なら、何も同じ場所で殺人を犯すはずがない。おそらく犯人は犯行を隠そうとする意思がなかったのだろう。

 僕の脳裏に、血に染まった刀を握りしめているマスターの表情が浮かんでくる。
 僕は慌てて、頭を横に振った。
 そんなはずがない。ただ、マスターの喫茶店の近くで、殺人が行われたという、ただそれだけのことなのだ。
 マスターがとてもそんな犯罪を犯すとは思えなかった。 

 喫茶店は、相変わらず休業したままだった。
 ドアの前に置いてある鉢の植え込みには埃がたまり、「しばらく休みます 店主」という張り紙が一枚、ドアに貼り付けてあった。
 中にマスターがいるのは、ガラス窓から漏れてくる灯りで分かる。ドアを引くと、それは奇妙な音を立てて開いた。
 店内は薄暗く、カウンターの中から「よお」と、マスターの低くくぐもった声が聞こえた。
「洋か、まあ座れ」と、マスターが言う。

 マスターの髪の毛はますますぼさぼさで、無精髭が顔の下半分を蔽っている。どこかカビの生えたようなすえた臭いがして、マスターはしばらく見ないうちにより一層痩せてしまった。
 だが、眼だけがギラギラと光っている。

「マスター、しばらく見ないうちに何だかすごく変わったよ」
 僕がそう言うと、マスターはしばらく考え込むようにして、
「この喫茶店も随分掃除してないから、埃っぽくなったよ。俺自身の体も垢まみれさ。髪の毛も伸び放題だし、見ての通り顔中髭だらけだ。それより、洋、お前も代わったな。何だか、前よりも色気づいた感じた。どうした?」
 僕はマスターの質問に答えず、「いったいどうしたんだい? 店だって、随分と休みだし」と聞いた。
「ああ、そうだな。とても開けられる状態じゃなかったんだ」
 と、マスターが言う。
「何があったの?」
「いろいろだよ。俺の世界が音を立てて崩れ始めているんだ」
 僕は例の事件のことを聞こうかどうか、迷っていた。まさか、犯人はマスターじゃないかと、面と向かって聞くわけにはいかない。

 だが、その事件を持ち出したのは、マスターの方だった。マスターは苦しげな表情で、「洋、例の事件、犯人は俺かもしれない」と言った。
「えっ」
 僕は思わず顔を上げ、マスターをまじまじと見た。
 マスターは実に苦しげな表情をしている。眉間に深い皺を寄せ、唇が微かに震えていた。
 僕は背筋がゾクッとし、思わず鳥肌を立てた。

「マスターが殺したの?」
「分からない」
「分からない?」
「ああ、何も覚えていないんだ。朝、テレビを付けると、ワイドショーで少女の首切り事件を報道していた。どうもこの喫茶店のすぐ近くが殺人現場らしい。最初はそれも偶然だろうとしか考えていなかった。なんてひどい犯人だ。俺は舌打ちをし、いつものように開店の準備に取りかかろうとした。そして、ふと考えた。殺人事件のその日その時の記憶が、俺の脳裏からすっかりと抜け落ちているんだ。それは実に恐ろしい感覚だった。どれほど懸命に思い出そうとしても、その時の記憶が蘇っては来ない。俺は自分の両指を見つめた。すると、両指が筋肉痛のように鈍く痛んでいた。それも錯覚だろうと、俺は思い直した。その時、首切り地蔵の伝説が、俺の脳裏に鮮やかに蘇ってきた」
 僕は言葉を失っていた。マスターになんて言葉をかけたらいいのか、分からない。

 「でも、単に記憶を失っただけで、マスターが犯人だという証拠もないじゃないか」
 かろうじてこれだけ言って、僕はマスターの言葉を待った。マスターは苦々しい顔をして、
「確かにその通りだ。俺が犯人だという証拠など、どこにもない。第一、俺には見知らぬ少女を殺す動機などない。現に、警察が俺を疑っている様子など、微塵もない。気のせいだと、俺は思い込もうとした。洋、記憶が抜け落ちている恐怖って、分かるか? 

 すべての記憶はしっかりとしているのに、ある瞬間だけの記憶が空白のままなんだ。その空白の時間に何が起ころうと、俺はそれに責任が持てないでいる。そして、その時殺人が起こったんだ。それから、俺は何事もなく普段の生活に戻ろうとした。その時、第二の事件が起こった。俺はその日も何気なくテレビのスイッチを付けた。第一の事件現場のすぐ近くで、また少女の生首が発見されたという。犯人は皆目見当がつかないらしい。俺は思わず自分の両指を見た。俺の指が強ばって、動かない。おそらくは長時間力を入れ続けたため、筋肉が固まってしまったのだろう。俺は思わず叫び声を上げた。そして、やはりその日のその時間、その時の記憶が俺の脳裏からすっぽりと抜け落ちている。俺は恐ろしくて恐ろしくて、喫茶店の片隅に蹲ってガタガタ震えていた。そして、何日も何日もここに閉じこもり、その空白の記憶を取り戻そうとした。でも、無駄だった」

 静寂が辺りを包んだ。
 マスターはしばらく黙り込んでいたり、僕は僕で言葉を失っていた。マスターが犯人である理由など、どこにもなかった。記憶喪失も単なる偶然か、それともマスターの強迫観念が記憶を消し去ってしまった、単なる精神障害かもしれない。
 だが、僕はそれを言い出せないでいた。
 ジキルとハイド、ふとそんな連想が僕の脳裏をよぎった。

 夕陽が辺りを真っ赤に染め上げ、川淵には多くの女達が数珠つなぎで首を垂れている。
 一人の侍が泣きながら、女の首を切り続ける。川は女の首を洗う血で底まで真っ赤に染まり、僕は空の上からそれを見つめている。
 そんな夢が脳裏に蘇る。
 僕は呆然とマスターの顔を見つめている。

「俺は必死で考えた。この世界の謎を解かなければならない。この頭が壊れてしまう前に、俺は俺の謎を解くんだ。それから、喫茶店を閉め、このくらい片隅に蹲りながら、何日も何日も考え続けた。俺の脳裏には、首切り地蔵の伝説があった。前にも話したと思うが、今回の事件と首切り地蔵はあまりにも符合しすぎている。織豊時代、河原で多くの女達の首が切られた。なぜかその情景が、俺の記憶の原風景としてしっかりと焼き付いている。俺は首切り役人で、泣きながら女達の首を切る。前世の記憶なのか、俺は未だに首を切った時の感触を、この掌に残しているんだ」

「まさか、マスターの思い過ごしだよ」
 僕はそう軽く流しながら、心に大きな引っかかりを感じて、背筋が寒くなるのを感じていた。
 僕の見た夢。
 僕は空であり、風であり、一人の侍が女達の首を次から次へと切り落としていくのを、はっきりと見たのだ。

 僕は声を上げて、泣いた。
 吐いて吐いて吐いて吐きまくった。
 その時、空は夕焼けで、真っ赤に染め上がっていた。
 だが、僕はそのことをマスターには黙っていた。なぜか、そのことはマスターには秘密にしなければならないと感じていた。ましてや僕の部屋に少女の姿をした猫がいることも、誰にも言ってはいけないことだった。
 

 時間が、空間が歪んでしまったのだろうか。
「確かに、首切り地蔵のことは何の関係もないかもしれない。だが、それなら、なぜ俺のこの指に首を切った感触が残っているのだ。それは俺が少女殺人の犯人である証拠ではないのか」
 僕は黙ってマスターの顔を見つめていた。僕にはもはやマスターに語るべき言葉が、何一つ残っていなかった。

「俺は自分の記憶をまさぐった。過去から、またその過去へ、空白の部分はその意味を読み取ろうと、必死で考えた。そして、俺は大切なことを思い出した。
 そうだ、俺はいつも誰かを待っていた。
 そのために、この喫茶店を開き、ここで誰かが俺を訪ねてくるのを待っていたんだと。洋、そして、分かったんだよ」
「えっ」
 僕は自分の鼓動の早鐘を聞いた。
 全身が微かに震えだし、金縛りにあったように動かない。
 マスターは真っ直ぐに僕を見つめた。その目には、鈍い光があった。

「洋、俺が今まで待っていたのは、お前だよ」
 マスターが小さな声で、それでいて妙にはっきりと、そう宣言した。


 

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