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Margo Guryan - Take a Picture


日本のディープサウスの里山--要はクソ田舎だ--では、僕が敬愛してやまないソングライターの囁くような歌声が、乾いた秋晴れの空に天たかく響き渡っている。レコード針を交換したばかりのせいか、安物だけど中域にハリがあって、スネアの音とか、声の芯の部分が盛り上がっているように聞こえてとても気持ちがいい。

ここ数日スピンし続けているのは、Margo Guryanの『Take a Picture』(1968)。芸術家の一生は短いが、その作品は永遠である--このフレーズが幸運にも(不幸にも?)あてはまってしまう作品だ。

同作を永遠のものにしているのは、これみよがしの知性などではなく、奥ゆかしさとでもいうべき品格、そしてある種の崇高なる精神である。

Wikipedia等によれば、ニューヨーク生まれのMargo Guryanの両親はともに音楽家で、自身も大学でクラシックとジャズのピアノを専攻。1937年生まれの“サラブレット”は、10代の多感な時期にモダン・ジャズに触れたのだろう。

僕が興味を惹かれるのは、さしずめインテリである彼女が、なぜポピュラーミュージックの舞台に軸足を移し、このような作品を作ったのか、という点である。もっと言えば、その転向に葛藤はなかったのかということ。

あの頃の音楽教育といえば、現代音楽全盛期で、19世紀的な調性などクソ喰らえと言わんばかりの雰囲気だったはずだし、ジャズだってモーダルな方向に急速に傾いていった頃でもある。そんな時代に調性のはっきりした進行に、ともすれば古臭い牧歌的なメロディを乗せ、自らが歌うことに気恥ずかしさを感じることはなかったのだろうか、と。

もちろん、プロフェッショナルに徹し、世間のニーズに応じたまでのこと。それ以上でも、以下でもない。あの頃はそういう時代だったのだ、と片付けてしまうこともできるだろう。しかし、彼女には、そうではない何か、音楽をただ音楽として愛する崇高なる魂の存在を感じてしまうのである。

そんな作家の精神を表すエピソードのひとつが、「友人のすすめで聴いた"God Only Knows"に触発され、"Think Of Rain"を書き上げた」というもの。彼女は、当時のポップフィールドについて、“ジャズの世界で起こっていることよりもすごい”と語ったともいわれている。

1960年代半ば、彼女の魂が共鳴したしたのは、Brian Wilsonをはじめとした、ポピュラーミュージックの範疇ではあるものの、いやむしろポップフィールドにおいてこそ既成概念を逸脱しようとする若い音楽家たちの、人智の限界を超えんとする崇高さであり、狂気一歩手前の無垢なる魂だったのかもしれない。

その極みと言えるのが、“Someone I Know”。本作のハイライトとでもいうべき楽曲だ。モチーフは有名すぎるほどに有名な主を讃えるバッハのカンタータ。対位法が演出する緻密で荘厳なサウンドを背景に歌われるのは、神に見放された個の苦悩や孤独、あるいは寄る辺なき魂である。彼女の知性は、カウンター・カルチャーのその先、あるいはそこからこぼれ落ちたものを捉えていたのかもしれない。

Your lips are warm and familiar
And you feel like someone I know

あまりに甘く切ない響きは、世界の片隅でひっそりと暮らす農夫の魂をも焦がすのである。

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