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エッセイ:雑記、あるいは支流について

1 雑踏と大声

街の雑踏で、突然にわたしが大声をあげたとしても、誰も見向きもしないだろう。

そんなことを考えることがあります。

誰も見向きもしないというのは大袈裟でしょうか。

確かにその周りにいるひとは、一瞬わたしを見るかもしれない。

けれど、やはり無視して去っていくでしょう。

流れている川に、石を投げ込んだところで、ちょっと波を立てるだけで、すぐに流れていくでしょう。

流れの急な川であれば、波を立てることもできない。

川底に落ちていく石。

きっと今日もどこかで石が落ちていく。

誰にも聞こえない声、けれど大きな声をあげながら。


2 扉について

扉をくぐれば部屋を移動できる。

扉をくぐれば外側に出られる。

扉をくぐれば内側に入れる。

もしそれ以外の扉があったなら、そんなことを考えることがあります。

目の前に扉があったら、大抵の場合、その扉の先をわたしたちは知っているでしょう。

扉の先に何があるかを知ったうえでくぐっている。

でも、もし扉の先を知らない、そんな扉があったなら。

そういう扉をくぐってみたいと思うのです。


3 映画「竜とそばかすの姫」について

今更ながら細田守監督のアニメ映画「竜とそばかすの姫」を観ました。

以下、ネタバレがあります、ご注意ください。

インターネットの仮想世界「U」で活躍する歌姫ベルが、「U」の格闘戦で道場破りを繰り返し皆に忌み嫌われる竜と出会う。

人気の歌姫だけれど、どこか心に弱さを抱えるベルと、嫌われ者だけれど、とても強い竜。

「歌姫ベル」や「竜」というのは、仮想世界「U」における仮の姿(アバター)です。

歌姫ベルの現実世界での姿は普通の女子高生・鈴なのでした。

では、現実の竜はどんなひとなのでしょうか。

実は、竜の正体は父親に家庭内暴力をされている子どもなのでした。

何者でもない女子高生と、家庭内暴力に苦しむ子ども。

そばかすの姫ベルは、はたして竜(=子ども)を家庭内暴力から救えるのか、という物語。


さて、この映画のこの物語について、観たひとたちから批判がありました。

批判のポイントは、ベルが現実世界でたったひとりで竜(=子ども)を助けに行くところです。

ベルは現実世界では高校生の設定なのでした。

高校生にもかかわらず、家庭内暴力をするような父親のもとにひとりで向かわせる物語の展開に批判があったようです。

物語は結果として、女子高生すず(ベル)を目の前にした暴力親が自身の暴力性に気がつき、崩れ落ちるというシーンで終わりました。

さて、この演出について少し考えてみたいと思います。

まず第一に、批判の主旨は分かります。

ようは、女子高生にひとりで向かわせるのは危険だ、公的機関を頼った方がいい、というか周りの大人も一緒に行けよ、ということです。

しかし、これは物語(フィクション)です。

制作者側が、リアルではありえなくとも物語(フィクション)のうえで必要な演出であると考えたがゆえに、このシーンが作られたのです。

とはいえ、実際に観たわたしも「おいおいひとりで行くのかよ」とは思いました。

では、何故すず(ベル)はひとりで行く必要があったのか。

この物語は、母を幼少期に亡くしたすず(ベル)が、なぜ母は亡くならなければならなかったのか、ということを理解し乗り越える物語でもあります。

すず(ベル)の母は、すずが小さいころに、山のキャンプ場で大雨が降り、増水した川で中州にひとり取り残された子どもを助けに行き、子どもを助けて自分自身は川に流され亡くなってしまったのでした。

すずは子どもながらに、ひとりで助けに行こうとする母を、やめて行かないで(行くとお母さんが危険に晒されるから)と止めたのでした。

しかし、すずの母は、わたしが行かないとあの子は死んでしまうと、すずの静止を振り切ってひとりで助けに向かいます。

その義侠心を、すずは理解できずにいました。

その後、高校生になったすずは、ベルという名のアバターとなり「U」の世界で活躍して、ある日突然に竜と出会う。

そして、竜は実は家庭内暴力に晒されている子どもであることを、すずは知ります。

すずは、家庭内暴力に晒される竜(=子ども)を助けに行く、それもひとりで行くむしろわたしが行かねばならない、という気持ちに自然となったとき、当時の母の気持ちを理解できたのです。

そして、家庭内暴力を繰り返す暴力親は、ひとりでやってきた女子高生の力強い義侠心に、自身の暴力性を抉り出され、崩れ落ちたのです。

その乗り越えの物語が「現実ではあり得ない」という視点から批判を浴びたのでした。

さて、繰り返しますが、この物語はフィクションです。

したがって、そもそも現実ではありません。

ようは、ここですずに対して、「そんなこと現実ではあり得ない」と言うことは、たとえば、別の作品に置き換えれば、18歳のハリー・ポッターひとりに、最強の悪の親玉ヴォルデモートと戦わせるのは、現実ではあり得ない、と指摘することと、構造上は同じです。

(言うまでもなく、ハリーがひとりでヴォルデモートと戦うのは、ハリーの両親(また友人たち)を殺害したヴォルデモートに対する復讐と乗り越えの物語である以上、必然的なものでしょう。)

ハリー・ポッターは最終巻の時点で18歳、すず(ベル)は17歳です。

ハリー・ポッターの物語はファンタジーだろう、と言うことはできます。

では「竜とそばかすの姫」は、どうでしょうか。

「竜とそばかすの姫」での仮想世界「U」の設定は完全にファンタジーでしょう。

それでもハリー・ポッターの魔法の世界と比べれば、「竜とそばかすの姫」の世界の方が現実的に思えることは否定しません。

しかし、どちらもフィクションなのです。

ましてや、「竜とそばかすの姫」はアニメーションです。(一方で、ハリー・ポッターは実写です。)

実写だけどファンタジーのハリー・ポッターと、アニメだけどやや現実的な「竜とそばかすの姫」。

そして、どちらも17歳か18歳のキャラクターが、暴力的な敵に立ち向かう物語です。

さて、では何故「竜とそばかすの姫」には「現実ではあり得ない」という批判があったのか。

ようは、フィクションの世界に、現実的な社会問題(子どもが受ける家庭内暴力)が挿入されたことで、物語の展開に対して現実的ではない、という感想が生じたのではないか。

あるいは、「竜とそばかすの姫」の制作側が、現実性とフィクション性のバランスを取り違えて作ってしまったとも言えます。

高校生がひとりで暴力親に立ち向かうシーンに、観ている側が「ファンタジー物語的で、ご都合主義的な展開」を許容できなかったとも言えます。

観ている側も、まあフィクションなんだから、そういうこともあるよね、ご都合主義展開があっても良いよね、というように受け取れなかったということ。

わたしは、観る側が悪いとか、作る側が悪いということが言いたいのではありません。

ただ、わたしには「インターネット」というモチーフのフィクション性が、作る側と観る側で違ったのではないか、と思えるのです。

さらに言えば、もはやインターネットは、観る側にフィクション性を想起させない、ということ。

それは、まさに今、現実で起きている、TikTokなどのSNSでの迷惑動画とも繋がっているのではないか。

そんな風に思います。


4 迷惑動画について

昨今、いや数年前からでしょうか。

SNSサービスに投稿される迷惑動画が世間を賑わせています。

数年前はコンビニのアイスの冷凍庫に店員が横たわっている動画などが拡散し、現在では回転寿司での迷惑行為の動画が拡散しています。

インターネット上でのサービスであるSNSは、アカウントが匿名でありから、ログインしているときは、まるで仮想世界にいるような気分になります。

現実のわたしと仮想のわたし。

その仮想世界でのわたしを知っているのは、そのアカウントと現実のわたしを結び付けられるひとだけ。

ようは、身近な友人や知人だけである、という感覚があります。

わたしのTwitterアカウントは、おそらく普通に見たら誰だか分かりません。

実名や、所属などは伏せていますし、また、普段の仕事の内容についてもあまりツイートしないようにしています。

一方で、大学時代の友人や、高校時代の友人の一部は、わたしのアカウントが、現実のわたしのものであることを知っています。

このように、大部分には匿名的だけれども、身近な狭い範囲では匿名ではないという感覚があります。

この感覚は、SNS空間が現実空間ではない、と強く感じさせる要因でもあるのではないか。

ようは、この世界は仮想空間なのではないか、と感じるということ。

仮想空間では、何をしたって、現実空間には影響しないのではないか、だって匿名だから、という感覚。

しかしながら実はそうではない。

SNSは、DMを使って約束すれば現実に相手と会うこともできる。

写真を載せれば、画像検索によって場所が特定される。

発信の頻度などから、現実にどういう生活をしているのかが特定される。

現実のわたしと繋がっている。

さらに、仮想空間上に書き込んだ内容は、消えるようで消えていない。

誰かにコピーされれば残ってしまう。

それは現実的にデータとして蓄積される。

もっとも重要なのは、IPアドレスなどから、開示請求することも可能だということ。

ようは、インターネットの技術的には、実は匿名ではなかったということ。(海外プロキシサーバーを通すなど、特定を避けることはできますが)

インターネット上のやりとりは現実的に効果を持つということが、すでに世間的に了解されつつあると思います。

インターネットは匿名的だという魔法は、とっくに解けている。

ネット上の口論や、相手を傷つけるような誹謗中傷的な発言は、現実的な喧嘩であり、現実的な中傷行為であるということ。

そういう時代なんだと、強く感じるようになりました。

仮想の魔法は解けて、現実に包括されているのです。


5 悪童の悪行について

何というかまあ、何もかもがつまらない。
金原ひとみ『オートフィクション』p.187

突然ですが、あなたは悪いことってしたことありますか?

わたしはあります。

少年時代に大なり小なり大人に迷惑をかけてきました。(昨今の迷惑動画ほどダイナミックに世間を騒がせることはしてませんが)

高校時代に悪行がバレて、校長室に親と一緒に呼び出され、校長先生に説教されたこともあります。

とは言え、わたしは悪行自慢をしたいのではありません。

わたしも少年時代はワルだったんだぜ〜、と自慢したいわけではない。

むしろ、わたしは後悔しています。

しょうもないことしてないで、もっと別のことをしたらよかった。

今ではそう思います。

あの頃は、親は共働きで、姉は出掛けており、家ではわたしひとり。

なんか退屈で、学校の抑圧にイライラし、同じく退屈とイライラを持て余した友人たちとたむろする毎日。

退屈だけれども、自分たちの力だけでは何も出来ない。

無気力と疎外感。

社会は、自分と無関係に動いているように感じていました。

実態として、ほとんど無関係に動いているでしょう。(大人になった今でもそうです)

子どもがいようといまいと、社会は動く。

むしろ、社会参画していないからこそ子どもであるとさえ言える。(大人ですら小さな歯車のひとつとして働くことが関の山です)

だから、子どもの頃は特に、社会に対して悪行をしても、どうせ社会は無関心だろうと思っていました。

お店に迷惑をかける行為をしても、他人に迷惑をかける行為しても、社会はびくともしないだろう、と。

だからと言って、子どもが悪行していいと言いたいわけではありません。

悪行はしない方がいいと、わたしは思います。

一方で、現在の若者たちが繰り広げる悪行に対して、それを良くないことだとは思いつつ、でも悪行をしてしまう気持ちが、なんとなく分かったりもします。

彼らはそうせざるを得なかったのではないか。

繰り返しますが、わたしは、現在の悪行について、情状酌量すべきだと言いたいわけでもないし、わたしにそんなこと言う権利はありません。

ただ、そういうことをしてしまう子どもがいるということが、何となく分かってしまう。

そういう子どもがいつの時代もいるだろう、と思う。

現在の悪行について、子どもにどういう責任を負わせるかどうかは、法律上の話ですから、当事者間で決めることです。

しかし、その判決によって何かが解決するとも思えない。

確かに、その判決によって悪行の責任の所在を明らかにされ、罰則が与えられるべきであれば、そのように判断されるでしょう。

と同時に、退屈を持て余し、イライラし、疎外を感じる子どもがこの世界にはいるでしょう。

悪行の悪性だけを考えるのではなく、その行為をしてしまった彼らの状況・環境に、わたしは思いを馳せてしまいます。

必ずしも彼らの肩を持ちたいわけではないのですが、どうも自己投影してしまうのです。


6 バイアスについて

あなたの見方にはバイアスがかかっている。

バイアスを取り除いて物事を見なければならない。

そういう言説を目にすることがあります。

ようは、バイアスを捨てて、バイアスを否定して、物事の本当の姿を見よう、という考え方でしょうか。

しかしながら、物事の本当の姿とは何でしょうか。

あるいは,バイアスを否定すればいい、という安直なバイアスにかかっている、そんな可能性もあるのではないか、と最近では思います。

言ってしまえば、これもまたある種のわたしのバイアスです。


7 読書録について

わたしは読書録をつけています。

読書を通して、わたしは、わたしが普段くぐらない扉をくぐることができる、そう思います。

では、読書の扉はどこに通じているのか。

知っている作家の本ならば、入り口を見れば出口をある程度予想できるように思うかも知れません。

わたしもある程度の予想をして読み始めます。

でも、ときどき全く予想外な出口を見せてくれる読書、というものがあります。

進めば進むだけ、ワクワクが止まらない。

最近では伊藤亜紗さんの身体にかかわるエッセイ・哲学論考がそういう読書体験をさせてくれました。

そういう、扉をくぐるような読書体験を記録する。

それがわたしの読書録です。

本の要約ではなく、扉をくぐった感覚を記録するような。

そういう感じ。


8 経路依存について、あるいは支流としてのわたし

わたし、という自己はどのように形成されるか。

それは、わたしという身体が、どんな経験をして来たのか、に大きくかかわっていると思います。

人間は遺伝が何割、経験が何割、という言い方があります。

わたしにとっては何割でも構いやしません。

昨日生きていて、一昨日生きていて、一か月前に生きていて、一年前に生きていて、三十二年前に生まれて、今のわたしがある。

もっと言えば、わたしが生まれる前の世界があって、歴史があったうえで、わたしはその大きな流れのなかで生まれています。

あまりに極大的な話でしょうか。

ようは、わたしは、大きな流れのうちの、小さな支流であるということ。

その川がどんな川か、と問われれば、その川がどのような道を通ってきたのか、を知ることが、その川がどんな川かを知ることになるでしょう。

わたしという支流を理解するには、遺伝が何割で経験が何割かというような論理は不要で、ようはそういうものを超えて、何をしてきたのか、ということだけが残る。

だからわたしは記録を残します。

noteを書く理由でもあります。


9 川の水量を増やすために

わたしは、自分がまるで一本の川、あるいは細い支流のようなものだと考えています。

川というものは面白いもので、山からの源流が二つに分かれ、また後で繋がったり、また別の源流の川と繋がったりします。

川は、別の川と接続されることで、川幅が広がったり、水量が増えたりする。

継続は力なり、という言葉を真似て言い換えてみると、接続は幅であり水量である、ということ。


10 おわりに

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

日常のなかで、なにか思うことがあるたびに、雑記を書きためています。

また溜まったら、noteに放流したいと思います。

ではまた。


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